体重:96.6kg[+-0.0kg:-12.3kg]
体脂肪率:28.8%[+0.4%:-4.0%]
BMI:30.5[+-0.0:-4.0]
体脂肪質量:27.8kg[+0.4kg:-9.3kg]
腹囲:95.0cm[+0.5cm:-9.3cm]
[先週との差:2010年当初との差]
本日は我が歌劇団のデビュー歌唱です。皆さんがこの記事を読んでいる頃、私は何をしているでしょうか? 今日の演奏の様子などは、水曜日頃にアップする予定ですので、しばらくお待ちください。
さて、おたびダイエット21週目です。毎週言ってますが、完全に停滞期です。ああ、果たして、これで私は目標を達成できるのでしょうか? ちなみに、目標と言うのは、年内に95Kgを切ることです。それができないと、私は来年の声楽の発表会に出られないかもしれない(涙)。ま、そうなったら、そうなったで、あきらめるしかないけれどね。
発表会なんてものは、出たくないのに無理やり丸め込まれて(笑)出る人も大勢いるのに、出たくて歌いたくて、でも出ちゃダメってのも、世の中の矛盾というか、まあ、世間なんてそんなもんだよね。
しかし、あと二カ月で2Kgもやせるのか…。来年の声楽発表会はマジで無理かも。
さてさて…今週のエッセイです。
人は誰でも死にます。有史以来、死なずに済んだ人はいません。おそらく、これからも多くの人が死んでいくことでしょう。
死は悲しいものです。とりわけ、残されたものにとっては、大きな喪失感を伴う悲しみです。ある人の死によって、人生が変わってしまう人もいるでしょう。“変わる”という表現が大袈裟であっても、人は多かれ少なかれ、身近な人の死に影響を受けないわけにはいきません。
それゆえ、死というのは、残された者にとっても、社会的な意味においても、非常に大きな意味を持つ事件であり、それゆえに、人は死を恐れ、死を忌み嫌うわけです。
実際、身近な人を失う悲しみは、何ものにも変えがたいほどの、強いストレスであり、避けられるものなら避け続けていたいものです。
ところで皆さんは、死を迎える当人にとって“死ぬ”と言う事件が、どんなモノなのか、考えたことはありますか? つまり「身近な者の死」ではなく「自分が死ぬ」という事を想像した事はありますか? 死んでしまう、まさにその時の事を、考えた事はありますか?
今回は「自分の死」について考えてみたいと思います。ただし、あくまで物理的&精神的な死について考えるに留めておきます。本来ならば、死というのは、宗教と結びつけて考えるべきだし、宗教の効用の一つが「死を受け入れる」事であるし、また死後の世界について思いを馳せるのも、宗教分野の話です。ただ、宗教分野の話は、科学的な再現が難しいですし、演繹的あるいは帰納的な思弁も難しく、結局“信じる/信じない”の世界の話になってしまい、それは“信じない”人にとっては、全くの無縁な世界、あるいは理解不能な世界になってしまいます。ですので、宗教分野の話は、稿を改めて書くことにし、今回は、死ぬその時までの話とし、死後の世界の話には踏み込まないことにします。
さて、話は戻しますが、皆さんは、ご自分の“死”について考えた事はありますか? それとも、考えたことはありませんか? まさか「自分は死なない」なんて考えてますか? まさか??
私はオッサンです。すでに、身内の人間も身近な友人たちも、何人も亡くしています。死を見送る立場にも何度かなりました。しかし、まだ、私自身は死んでいません。
当たり前ですね。死んだ人間がブログを書いているわけないですから(笑)。
でも、そんな私も遠からず、死にます。これは、人としての宿命です。その日が明日なのか、明後日なのか、一週間後なのか、一カ月後なのか、一年後なのか、十年後なのか、二十年後、三十年後、五十年後、百年後…? ま、少なくとも、百年後はないですね。その前に確実に死んでいます。おそらく五十年後だって生きてはいないでしょう。普通に考えて、そんなに長生きできるはずないですからね。
私の死の原因が、いわゆる自然死であるなら、日本人の平均余命から考えて、残り時間は、せいぜい二十年前後ってところでしょう。良くて三十年ぐらいかな。死因が病死であるなら、ひとまず現在は健康なので、少なくとも一年程度の余命を考えても良いでしょう。死因が事故死ならば、それこそ「明日の命もしれぬ身」ですね。
つまり、なんであれ、私は、それほど遠くない未来、確実に死にます。
それを改めて確認した時に「死ぬって、どんな感じだろ」って思いました。事故などで大怪我を負って死ぬなら、怪我の痛みの中で死ぬのでしょう。病気で死ぬなら、病気の苦しみの中で死ぬのでしょう。一方、即死ならば、痛みを感じている時間すらないかもしれません。植物人間になっていたら、自分が死んでしまう事すら気付かないかもしれません。
純粋に“死”の瞬間を考えてみるならば、それは単に“意識が無くなる事”です。そして、そこで失った意識は二度と戻る事はありません。いわば、精神の死です。人は精神の死を迎えたあと、しばらくの時間をおいて、やがて身体の活動を止めてしまいます。これが肉体の死です。この二つの時間がほとんど同時に起これば“即死”であり、医学的に切り離してしまうと“植物状態”って奴なんだろうと思います。
私は、私という存在は“精神的な存在”だと思ってます。“私という精神”が“私の肉体”に宿っているのが、今の私だと思ってます。…これはSF的な発想ですが“私という精神”が別の肉体に宿ったとしても、それはきっと“私”だと思います。しかし“私の肉体”に“別の精神”が入り込んだならば、それは私の姿をしているけれど、おそらく“私”ではない、別の人間だろうと考えます。つまり、私の実存は、その肉体ではなく“精神”にあると思います。
ならば“精神の死”が“私の死”であり、それは“意識を失い、二度と戻らない事”が“私の死”です。
実は私、今までに数回、意識を失った事があります。
私は若い時、熱心に柔道に取り組んでいました。ですから、試合で首を絞められて“落ちた”事など、何度もありますが、あの“落ちる”って、まさに意識を失う事、つまり“意識喪失”そのものですね。もちろん、首を絞められて意識喪失しても、介抱されて、数分後に意識を回復しましたが、もしもあのまま意識が回復しなかったなら、私は絞殺死を迎えていたわけです。
私には喘息の持病があります。ここ、数年は発作も起こらずに元気一杯ですが、やはり発作が激しかった時期があります。その頃は、喘息の発作がひどくて咳き込むばかりで、息を吸う暇がなく、咳ばかりを連続的に繰り返して、酸欠になって、そのまま意識が遠のいてしまい、気絶してしまった事があります。これもまた意識喪失です。しかし、意識を失って、数分後に不思議と意識を取り戻せたわけですが、これも意識が戻らなければ、窒息死になっていたはずです。
喘息って、意識があると発作で苦しいのですが、意識がなくなると、喘息発作も治まるんですね、不思議です。
温泉に入っていた時に、急に気分が悪くなって、そのまま風呂場で倒れて、意識を失った事もあります。これはおそらく、一時的な脳貧血、あるいは軽度の脳梗塞、あるいは心臓マヒや不整脈だったのだと思いますが、血流が回復しなかったなら、そのまま脳に酸素が行き届かずに、酸欠状態となり死んでいた事でしょう。
その他にも、部分麻酔で手術を受けていたはずなのに、心臓が止まってしまって意識を失ってしまった事がありますし、病院で点滴された薬が合わなくて、気分が悪くなって倒れて意識を失った事もあります。
ざっと思い出すだけでも、私でも、これくらいの回数は、意識を失ってますね。これらのケースでは、どれも、しばらくしたら、意識が回復してますから、今、こうやって生きていられるわけですが、もしも、あの時に意識を失ったままだったなら、私はすでに死んでいるわけです。
割と平凡な人生を送っている私ですから、この程度の回数の意識喪失があります。皆さんも、今までの人生の中で、数回程度の意識喪失なら、あるのではありませんか?
これらの事件(?)を今思い返すと「ああ、私は数回、死の淵にまで行ったんだな。三途の川の手前まで行ったんだな。たまたま、戻ってこれただけで、戻ってこれなければ、死んでいたな」って思います。
柔道で首を絞められたまま放置されていたら…死んでいます。
喘息で倒れた時は…カラダにリセットがかかって再起動できたから良かったものの、再起動のスイッチが入らなかったら…死んでいます。
温泉で倒れた時も、再起動のスイッチが入らなければ…やはり死んでいました。
病院で倒れた時は…一体、何がどうなったんでしょうね。でも、倒れた場所が病院だったら命拾いしたと言えるかな?
そう考えると、私って、それらの時に死んでいても、ちっとも不思議じゃないです。いや、私が今、生きて、こうしてブログを書いている事の方が不思議なくらいだし、本来なら、すでに私は“死んでいる人”であってもおかしくないです。
たまたま“戻ってこられた”から生きているわけで、あのまま意識が戻らなかったら、私はあの時に死んでいました。
もしも、あの意識喪失の瞬間が私の死の瞬間であったなら……死って、怖くないな……そう思います。だって、意識を失う瞬間って、全然怖くなかったもの。痛くもないし、苦しくもない。何を考える暇もなく、ただ単純に意識が薄れてフェードアウトしていくだけでした。もちろん、その直前までは、苦しかったり痛かったり不安だったりしたんだけれど、実際に意識がフェードアウトするその時は、実に安らかな気分で意識が闇の中に落ちていきました。
「覚醒(=“精神的な私”がいる状態)」から「意識喪失(=“精神的な私”がそこにいない状態)」に移行するのが“死”なら、それは特に恐れるに足らないものだと、今の私はそう思います。
自分が死ぬのは怖くない、むしろ他人が死ぬのを見送る方がよっぽどツライのです。
自分が死ぬ事自体は、怖くないにしても、問題は、今回、触れなかった宗教分野の部分ですね。死後の世界の話。こっちの方には、恐れはあります。だから私は「死ぬことは怖くないけれど、死んだあとの事は、ちょっとコワイ」です。
でも、それでも人はいつか死ぬんです。残された人の事を考えると、自分が死んだ後の事、死んでいく最中の事、しっかり考えて、言い残しておかないといけない事は、しっかりと遺言しておかないといけないなあって思います。
それと、いずれ死んでしまうなら、今を大事に生きていきたいと思いました。今、出来ることを、常に精一杯やって、死の瞬間に、後悔少なくして死んでいきたいと思いました。