2012年08月18日

老犬ブログ前史 その4 音楽から離れていても、やっぱり音楽をやってました

 私はT先生に破門されて以来、あれだけ熱心だったのに、音楽に関する情熱を失ってしまいました。

 でも、生きて生活をしている以上、全く音楽と関わらないと言うわけにはいきませんでした。

 例えば、職場で余興のためにバンドを組めば…当然、私は駆り出されます。当時の私は高校のセンセでして、就職して最初に持った部活が『フォークソング部』でした。私がギターを弾けるというのは、周知の事実だったので、何かバンド系の余興があれば、必ず呼び出されてギターを弾いてました。それはまるで“ピアノを弾く”となれば音楽の教師が呼ばれるように“ギターを弾く”なると、私が呼ばれていました。

 別に私は特別にギターが上手というわけではなかったですし、私よりも上手なギタリストも職場にはたくさんいたと思いますが、ギター伴奏となると、ギターしか弾けない人よりも、私のギターの方が(自分で言うのもなんですが)人気があり、重宝されていました。なにしろ、私は歌いながらギターを弾くので、歌う人たちも、私のギターでは歌いやすく感じてくれていたのだと思います。歌い手と伴奏者が息を合わせるって大切ですからね。スーパーギタリスト志向のギターしか弾かない人たちの伴奏では、歌が歌いづらいとよくこぼしていました。

 ですから、私は稚拙なギタリストでしたが、余興のたびに何かと、声を掛けられました。

 それどころか、私はピアノなんてロクに弾けないのですが、たまにピアノ伴奏の声もかけていただきました。

 一応「私はピアノ弾けないよ」と言って断るのですが「嘘うそ嘘…」と言って、とりあってくれないので、仕方なしにピアノを弾きました。ピアノを弾くと言っても、いわゆるピアニスティックにピアノを弾くことはできません。まるでギターを弾いているようにピアノを弾くだけです。つまりは、コードをダダーンと弾くか、コードで簡単なアルペジオを弾くか、まあ、そんなところです。

 おそらくは、専門教育を受けた人はともかく、趣味レベルでピアノを弾く人だと、いわゆる「歌詞にコードを書いてあるだけの譜面」では、ピアノをどう弾いたら良いのか見当もつかずに、全然対応できなくて、ピアノが弾ける人たちが片っ端から伴奏を断ってしまうので、最終的に私に回ってくるのだろうと思います。

 私はギターと作曲をやっていたせいもあって、コードを見ると、一応、その構成音は分かります。おまけに、フォークソング部では、文化祭などの人前演奏では、顧問もバンドに加わるのが常(と言うか、私も一緒に混ざりたかっただけ:笑)だったので、私も結構ステージに上がってました。ステージではギターを弾くことが多かったのですが、曲によってはピアノを弾いたり、ベースを弾いたりしてましたので、私がピアノを弾く姿というのも、人々にインプットされていたのかもしれません。

 なので、余興ってなると、ギターを弾いたり、ピアノを弾いたりしてました。
 
 
 やがて、フォークソング部は時流の波に飲まれて、廃部となり、私は軽音楽部の顧問に変わりました。軽音楽部は、当時はまだまだ“尖った子のたまり場”ってイメージも強く、生徒たちもフォークソング部とは違って『センセと仲良くなるなんて、恥!』という意識が強く、何かと教師と対立することを楽しむという、やっかいな部活でした。私は生徒と仲良く音楽をやりたい人だったので、軽音楽部の顧問は、ちょっぴり寂しかったです。

 趣味としての音楽を止め、その分のエネルギーをパソコンに注いでいた当時の私は、職場の中でも、1、2を争う、パソコンオタクになっていました。そんなパソコンオタクを放置しておくのはモッタイナイという事だったのでしょうね。浮かぬ顔をして勤めていた軽音楽部からパソコン部の顧問へと移動になりました。軽音楽部は人気クラブだったので、顧問のなり手もたくさんいたので、私は『これさいわい、渡りに舟』ってな思いで、人手の足りないパソコン部に移動になりました。
 
 
 パソコン部は、センセと生徒の仲が良い部でした。

 私が関わる前のパソコン部では、時代の影響もあったのでしょうが“ワープロ検定”とか“MSオフィスを学ぶ”とか、まるで商業高校のカリキュラムのような事をやっていたのです。なにしろ、ネットですら、まだまだ十分な普及をしていなかった時代です。パソコンと言うと、事務機ってイメージが強かった時代の話です。

 が、私はそういうマジメなパソコンの使い方は好きではなかったので、顧問に就任すると、さっそく“お絵描き”と“ゲーム制作”と“DTM”を始めました。もちろん、個人的に没頭したのはDTMでしたが(笑)。

 DTMとは言っても、まだ、初音ミクのなかった時代でした。いや、それどころか、ハードディスク録音すら夢のまた夢という時代の、まだMIDI全盛期で、音源も外部音源の時代でした。

 ですから、やっていたのは、MIDI制御で、パソコンから外部シンセサイザーをコントロールして、インストゥルメンタル曲の自動演奏をする程度です、もちろんそのために、生徒と一緒に、曲(いわゆる、テクノですね)も作曲しました。

 生徒と一緒になって、毎日のように部室に集まって、作曲してプログラミングをして…って楽しかったなあ。生徒たちは、数値で打ち込んでましたが、私は人間が古いので、五線譜で曲を打ち込んでました(笑)。

 そのままパソコン部の顧問を続けられたら、やがて時代が追いついてきて、初音ミクにたどり着いたのかもしれませんが、私は残念な事に、ミクちゃんの登場前に、小学校に移動する事になってしまったので、パソコン部の顧問をやめざるをえなくなりました。
 
 
 小学校のセンセになると、色々な教科を持たないといけなくなりました。当然、音楽の授業もいくつか持つようになりました。この私が“音楽”ですよ(笑)。ピアノもロクに弾けないのに…。ちゃんちゃらおかしいですね。

 最初に持った音楽の授業は、合唱の授業でした。その授業は、三人一組のティームティーチングだったので、他の二人のセンセが、歌の指導とか、ピアノ伴奏とかをしてくれたので、私は生徒の面倒を見る方に集中でき、具体的な音楽指導はあまりせずに済みました。

 その代わり、休日を返上して、地元の音楽協会の会議とかに出席して、顔をつなぐという役割をやるようになりました。つまり、事務方仕事を一手に引き受けたわけです。

 その頃は、秋の音楽シーズンに向けて、春から夏にかけては、休日ごとに、音楽関係の会議に顔をだして、なんとかのコンサートとか、なんとかの演奏会とのかスタッフをやったりするようになりました。

 顔が広くなると、また色々とご縁が生じるもので、そんな事から次回の話は始まります。

↓拍手の代わりにクリックしていただけたら感謝です。
にほんブログ村 クラシックブログへ
にほんブログ村

posted by stone at 03:30| Comment(2) | 音楽一般