2020年02月26日

フランス歌曲に憧れはあるけれど

 以前の私は、ドイツ歌曲に憧れを持っていました。で、今、その憧れを現実のモノにするためにシューベルトの「美しき水車小屋の娘」を学んでいます。まだ、あれこれ大変ですが、やがて稚拙ながらもドイツ歌曲を歌えるようになるのではないかと、なんかワクワクしています。

 で、ドイツ歌曲への憧れが現実化するにつれ、別の憧れがムクムクと頭を持ち上げてきました。それはフランス歌曲への憧れです。

 フランス歌曲。ハードルが高いなあ。

 まず、私、フランス語は全くできません。ドイツ語は大学の第3外国語として学んだ(第2は中国語、ちなみに卒業に必須なのは第2の修得まで)から、多少は分かるけれど、私のフランス語の力は、テレビ講座のフランス語会話を1年ほど見続けた程度です。フランス語的な耳は多少はできたと思いますが、会話も読書も無理です。書いてある文章を読み上げる事は、番組を見ていた頃はできたかもしれませんが、今はちょっと無理かもしれません。

 結論を言えば、フランス語の歌詞を読むのさえ難儀を感じるレベルです。

 じゃあ、先生に指導してもらえばいいじゃん…と言う話になりますが、Y先生はあまりフランス語がお好きではないので、フランス歌曲には前向きではないんですねえ…。フランス歌曲をやるなら、かなり強くY先生にお願いするか、あるいは別の先生にお願いしないと難しいかもしれません。

 もっとも、上記の問題を解決したとしても「じゃあ何を歌うの?」という話になります。フランス歌曲って、やっぱり女声のモノっていうイメージあるよね。実際、フランス歌曲のレコード(表現が古くてゴメン)も大半が女声歌手のモノだしね。最近では、イアン・ボストリッジ(テノール。ほぼほぼ歌曲専門歌手)がフランス歌曲を吹き込んでいますが、評判が悪いというか、聞く側に違和感があるようなのです。

 この世界には「そもそもテノールは歌曲を歌わない、オペラアリアを歌い飛ばすもの」という暗黙の了解のようなモノがあるそうなのです。テノールが歌曲を歌っても、トスティ歌曲やイタリア民謡(これって歌曲なの?)ぐらいで、真面目で深刻な歌曲はバリトンに任せましょうって感じだし、繊細でたおやかな曲は女声歌手に任せましょうって雰囲気もあったりします。

 確かに、テノールには深刻な曲は似合わないし、繊細さとか、たおやかさとかって、無縁だね。テノールって、基本的にガサツだし、私も例にもれずガサツだもんな。

 歌って歌えないわけじゃないだろうけれど、テノールが歌って映えるフランス歌曲ってあるのかしら?

 なあんて考え出すと、頭がぐるぐるしちゃいます。

 今はフランス歌曲よりも、目の前のドイツ歌曲の習得に全力を注がないといけません。ドイツ歌曲が一段落した時に、フランス歌曲に手を出せると、ちょっぴりうれしいなあと思います。

 で、もしもフランス歌曲を学ぶことができから、きっと次のあこがれは…スペイン歌曲になりそうな気がします(笑)。あ、その前にフランスオペラのテノールアリアが待っているね。そこには珠玉のアリアがわんさかあるんだよね。ああ、楽しみだ。

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2020年02月20日

「パプリカ」は低くて歌いづらい(涙)

 昨年、大ヒットした、小学生グループFoorinが歌う「パプリカ」は米津玄師作詞作曲として有名です。NHKの東京オリンピックの応援ソングなんだそうで、まだまだ今年も耳にする曲でしょう。


 この動画は、音源はたぶん本物のFoorinだと思いますが、画像の方は別人のものです。まあ、いわゆる“踊ってみました”系の動画ってわけです。

 で、チャンスがあって、この曲を歌う機会に恵まれたのですが、歌ってみて感じたのは「この曲、低くて、歌いづらい」という事です。

 音域的にはA〜E♭で音域的には12度です。音域的にはかなり広いです。普通の唱歌がC〜Eまでの10度ですから、下の方に3度ほど広がっています。今の小学生は、昔の子供よりも音域が下がっているそうですから、この音域の低さは、現代っ子の音域に合わせてあるのかもしれませんが…それにしても音域広い。もっとも、グループで歌う事が前提になっていますので、高いメロディと低いメロディと分担して歌えばいいので、彼らにとっては、それほど大変ではないのかもしれません。でも、一人で歌うとなると、ちょっと大変かもしれません。

 メロディーは、全般的には低い方に集中しています。ただサビの一部のメロディーが、高くなっています。高音をうまく使った作曲法ですね。クラシック的な言い方をすると、アルトや低音に強いメゾソプラノあたりが歌うような曲として仕上がっています。男声なら、バリトン向けの曲ですね。

 一般の老若男女にとっては、このくらいの音域が歌いやすいのだろうと思います。実際、私だって、ボソボソ歌うなら、これくらいの音域でもどうにかなります。

 今のJ-POP系の歌って、カラオケで素人が歌唱するという前提もあり、ボソボソ系の歌が標準なんだと思います。ボソボソ歌っても、マイクを使えば、十分な歌になりますからね。ボソボソ歌えば、音程の甘さも目立たなし、リズムの不正確さもごまかせます。

 「パプリカ」もマイクを使って歌うという大前提があるでしょうから、これくらいの音域でいいのです。

 でも、私のようなテノールさんとか、日本女性の大半を占めるソプラノさんには、かなり低い歌だと思われます。低くて歌いづらいよね。我々的には、もう3度上げて、C〜Gぐらいの音域にしてもらえると、とても歌いやすいのだけれど…「パプリカ」を始めとする、世間一般の流行歌ってのは、ボソボソ歌う用に作られているので、仕方ないのです。

 ああ、低くて歌いづらい。

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2020年02月13日

声に合わせて選曲するとは?

 声に合わせて選曲をする…とは、よく耳にしますが、具体的にどのような点に注意して選曲をする事なのか考えてみました。一応、自分の声の特徴については理解しているという前提で話を進めます。

 まず最初に見るのは、音域でしょうね。とりわけ最高音は何なのかは、いの一番に見る事だと思います。出ない音で書かれた曲は歌えませんからね。必要ならば、移調する必要があるかもしれません。

 原則的には、自分がギリギリ出せる高さの音からやや低め(半音〜全音程度)の音までで作られている曲が声的には良さそうです。ギリギリ出せる高さの音を使ってしまうと、切なくなりすぎるので、その1つ2つ低い音までの曲が、一般的に伸びやかに歌える高さだと言われています。

 音域が広い曲だと、最低音にも気をつけないといけません。低い音は、自分では出せているつもりでも声になっていない事も多いので、気をつけましょう。これも高音同様、自分の限界よりも、ちょっと高めの音までなら良しとしましょう。

 音域的にOKでも、メロディ全体の中で、音符たちが低音寄りになっているのか、高音寄りになっているかにも気をつけないといけません。多くの曲は中音域でメロディーが書かれていますが、そうではない曲もあるからです。

 基本のメロディーが低音ばかりで構成されているような曲は、低声歌手には良いでしょうが、高音歌手だとちょっと厳しいです。逆に高音寄りの音符ばかりで構成されたメロディーは高音歌手にとっては歌いやすい曲ででしょうが、低声歌手にはキツイものがあります。

 曲の特徴にも気をつけたいものです。跳躍が多い曲や、コロコロ転がる曲、白玉音符が連続しているような曲、強い声を必要とする曲、リズミカルな歌い方が必要な曲、緻密なハーモニーで作られている曲、不協和音を多用している曲。曲には様々な特徴があります。自分が使える技術や技法で対応できる曲なら良いのですが、不得手としているタイプの曲をわざわざ選ぶ必要はありません。

 曲のテンポや長さも考える必要があります。滑舌があまり良くない方には、速いテンポの曲は厳しいでしょう。声のスタミナがない人も、あまり長い曲は歌えません。

 どこで歌うのか、どんな形態で歌うのかも、選曲の時には考える必要があります。こじんまりとした音楽ホールで歌うのなら、あまり問題はないかもしれませんが、大ホールで歌うとなると、それなりの選曲をしないといけません。また、マイクを使って歌う前提の会場もあるでしょう。

 声とは直接関係ありませんが、共演者がいる場合(デュエットをするとか、合唱団をバックに歌うとか、バイオリン等が助奏してくれるとか)は、共演者の事も考えて選曲しないといけません。

 そして、一番の共演者と言えば、伴奏者です。伴奏についても考えなければいけないかもしれません。例えば、伴奏楽器がピアノなら、ピアニストのアテはありますか? ピアノ合わせの時間は取れますか? ピアニストの技量によっては、選曲を変えないといけないかもしれません。カラオケ伴奏なら、誰がカラオケを用意しますか? 自分以外の人が用意するカラオケの場合、事前にカラオケ合わせをしないといけません。伴奏がオーケストラの場合は…オケ合わせも必要ですが、その前にオーケストラの音量に対抗する歌い方ができる曲を選曲しないといけません。

 そう考えると、選曲するって、案外、色々な事を考えないといけないので、大変な作業なんですね。

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2020年02月12日

私は教えやすい生徒なのか?

 時々「私は先生方にとって良い生徒なのかどうか?」と考える事があります。“良い生徒”の定義が難しいので、ここでは“教えやすい生徒”という事で話を進めてみたいと思います。

 私は「教えやすい生徒」なのかな?

 まず、私は初老男性で、ガタイもかなりデカイです。おまけに圧も強いです。先生が女性、特に若い女性だと、イヤかもしれません。なにしろ、必ず小型犬には吠えられるタイプの人ですから…。今、師事している先生は二人とも男性なので、その点では、特に問題はなさそうです。

 向上心はあります。これはプラスポイントですね。しかし、仕事が忙しい事もあって、自宅で練習をほぼしてきません。練習してこない生徒は…先生的に言えば、ちょっこ困った生徒さんなのかもしれません。申し訳ない。

 理解力は普通にあります。一般常識もありますし、座学も苦手ではありません。言語指示もちゃんと通用します。性格的にも温厚です。

 コミュニケーション上手だと思われがちです。目立ちたがり屋ですし、自信家のように見られがちです。まあ、これはあながち間違いってわけではありませんが、私の根っこの部分は、ひきこもり系のオタクなので、これって結構頑張った結果なんですけれどね。まあ、オトナですから…。

 歌に関して言えば、歌オタクです。知識だけなら、かなり豊富にあります。オタクを教えるってのは、先生的にはどうなんでしょうね? やりづらくないでしょうか?

 あと私、声種的にはテノールという希少種です。歌の先生というと、圧倒的にソプラノの先生が多いわけで、テノールの先生はかなり少ないわけです。歌は別に同じ声種の先生について学ばないといけないわけではありませんし、実際、現在師事しているY先生はバリトンです。教える事はできても、違う声種の先生にとって、テノールというのは、あまり知らない分野なわけで、同じ声種の生徒や、生徒数の多いソプラノを教えるのと比べると、ちょっとやりづらいかもしれません。

 フルートに関して言えば、逆で、私はほぼほぼフルート音楽ってヤツを知りません。その分野に無知な生徒を教えるというのは…きっと教えがいがあるでしょうね。

 あ、一応、金払いは良い方だと思いますよ。

 こうして考えてみると、私は、ちょっぴり困った点がないわけではないけれど、押しなべて言えば、割と教えやすい生徒さんなのかもしれないなあと思いました。自己満足、自己満足。

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2020年02月10日

長い曲が歌えない(涙)

 どうも最近、何となく分かってきた事があるのですが…それはどうやら私「長い曲が歌えない」みたいなんです。なぜかと言えば「疲れちゃうから(涙)」。

 具体的にどう疲れるのかと言うと「軟口蓋を上げ続けるのに疲れて、やがて軟口蓋が上がらなくなって、歌えなくなってしまう」という状態に陥ります。軟口蓋を上げずに、胸に落ちた声で歌うなら、それなりに歌えますが、軟口蓋を上げて、ボジション高めの声で歌うと、割とすぐに疲れてしまうのです。

 だいたい、楽譜で言うと、3〜4ページが限界かな? それ以上長い曲になると、どうしても、軟口蓋が上がらなくなってしまい、歌えなくなってしまうのです。

 要するに「歌う体力が不足している」とも言えます。

 この問題を乗り越える方法は、ただ1つ。毎日、じっくり歌い続けて、歌の基礎体力を向上させて、ちっとやそっとの時間、歌い続けたくらいでへこたれない筋力を身につける事です。

 そういう意味では、練習時間の少なさが、この問題に直結しているんだよね。体力だけは、座学じゃあ身につかないからなあ…(涙)。

 その点、フルートは歌ほどは体力を使わないので、集中力さえキープできれど、どんなに長い曲でもウェルカムなんです。

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2020年01月27日

声楽の難しさは、見えない難しさ

 声楽を学ぶと感じる事は「見えないモノを学ぶ難しさ」です。

 だから、耳が大切。聴力とは別の“聞く力”が十分にないと、基本的な事を学ぶのすら難しいですし、それどころか(私のように)なかなか上達しません。「百聞は一見に如かず」が実践できない世界なのです。

 この世には、教則本ビデオってのがあります。楽器の入門時に参考にするものです。特に独学者なら必携のものでしょう。私もフルートを始めたばかりの時に一つ買いました。今なら買わずとも、You Tube等に類似のビデオがゴロゴロ転がっていますよね。あの手のビデオを使って、楽器の初歩の初歩を学ぶ事ができます。実際に先生についてマンツーマンで学ぶ事には到底及びませんが、それでも教則ビデオがあれば、なんとか基本の基ぐらいは学ぶ事ができるんじゃないかしらと思います。

 だって、楽器って見えるからね。運指も見えるし、奏法の実際だって見える。見て学ぶ事ができます。乱暴な言い方をすれば、ビデオ講師の真似をすればいいんだから。

 一方、声楽の教則本ビデオってあるのかしら? もしあったとして、何を参考にするのかしら? だって、声楽って、声の出し方も、音程のとり方も、実際の奏法のやり方も、全部見えないもの。あくまでも歌手の感覚で行っているわけで、体内の筋肉をあっちこっち引っ張ってやっているわけだけれど、それは外から観察できないモノだからね。

 つまり、声楽はたとえ教則本ビデオがあったとしても、ビデオ講師の真似なんて、なかなかできないんです。

 「ものまね芸人さんが真似をするような感じで、歌や発声方法を真似ていけばいいんじゃないの?」

 私も一時期、そんなふうに考えたことがありますが、これ、実際はあまり上手いやり方ではありません。と言うのも、モノマネをする感じで真似てしまうと、作り声になってしまうからです。声楽で使う声は自然で無理のない声をベースにするべきであって、決して作り声で歌うわけではありません。そういう意味では、ものまね芸人さんとは違うし、声優がキャラになって歌うのともわけが違います。

 結局は、声を聞いて、それを分析して、筋肉の動きを推測して、その筋肉の動きを真似るようにすれば良いわけだけれど、声だけ聞いて筋肉の動きを推測するなんて、初学者には無理難題だんだよね。

 だから、声楽を学ぶのは難しいのだと思います。

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2020年01月13日

歌曲はなぜ移調して歌ってもいいのだろうか?

 作曲家は、あれこれ考えて歌曲の作曲をしていると思うのです。調性だってデタラメに決めているわけではないでしょうし、最高音最低音だって、考えた上で、その音域で作曲していると思うのです。

 で、考え抜かれて作曲された歌曲であっても、移調してしまえば、調性が変わるわけで、調性が変われば、音楽の雰囲気が変わってしまいます。歌手の声の切り替えの場所(いわゆるチェンジ)とメロディの関わりも変わってしまうわけで、移調する事で、作曲家が表現したかったモノが失われてしまう可能性もあるかもしれません。

 例えば、ベッリーニ作曲の「Vaga luna, che inargenti/優雅な月よ」は、中声用の歌曲であって、テノールやソプラノ歌手にとっては、ちょっと歌い足りない音域の曲です。ですから、以前の私は、この曲の高声版の楽譜を使って歌っていましたが、最近は、やっぱりオリジナルの中声版の楽譜を使って歌った方がいいんじゃないかと思うようになりました。その理由は、月を歌った歌曲なので、あの月光の穏やかさを歌い方の中でも表現しないといけないのではないかと思うからです。で、あの曲を自分の声に合わせて、高声用で歌ってしまうと、ちょっと音楽がギラギラしすぎるかなって思うんです。そうなると、音楽的には、月の光ではなく、星の輝きになってしまうような気がして、あの曲は、自分的には物足りないのだけれど、オリジナルの中声版で歌った方がいいなと思うし、その方が、作曲家のベッリーニの作曲意図に近いのではないかと、勝手に考えているからです。

 なので、歌曲であっても、その曲の音楽性を尊重すれば、移調せずに、オリジナルの調性で歌った方がいいかなと思ってます。まあ、そんな事は、私がうだうだ書かなくても、世の中の音楽家の皆さんは承知している事だろうと思ってます。

 それでも、世の中では、歌手の声に合わせた調性に移調して歌われているケースが非常に多いです。それはなぜか?

 良い歌曲だから、ぜひ歌いたい。聞きたい。単純にそれだけの話だと思います。

 作曲家の意図は尊重した上で、それでもこの歌曲を歌いたい。でも、自分の声には合わないとなった時に「じゃあ歌うのをやめよう」と思える曲なら、たぶん歌手は最初っから歌おうとは考えません。歌おうと思った時点で、移調をしてでも歌おうと考えます。

 良い音楽はみんなで共有したい。

 移調とは違いますが、同じような事は器楽曲でもあるように思います。

 例えば、歌曲はもちろん、ヴァイオリンの曲とか、ピアノの曲とかには、名曲が溢れていますが(残念な事)フルートの名曲というのは、数えるほどしかありません。歌曲やヴァイオリンの曲、ピアノの曲をアレンジして、フルートで演奏する事が多々ありますが、あれもそうなんじゃないかと思ってます。良い音楽はみんなで共有したいですものね。

 ある意味、歌曲を移調して歌う事は、演奏家のエゴであり、観客の欲であり、それらが作曲家の意図を越えてしまっているのかもしれませんが、歌手の声に合わせて、歌曲は移調されて歌われることが、常識化しているのは、そんな事なんだろうと思います。

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2019年12月23日

音痴を治す方法

 世の中には“音痴”と陰口を叩かれるタイプの人がいます。まあ、私もかつてはそう言われていたと思うんですが、たぶん、今は音痴じゃないと思うんです。少なくとも“ひどい音痴”ではないと思います。普通に歌が歌えるからね。

 で、音痴の人の特徴は「正しい音階に従って歌が歌えない」です。この場合の音階は、相対的なものであって、絶対音で歌えないといけないというほどシビアな話ではありません。オリジナルと調性は違っていても、相対的に正しい音階で歌が歌えれば、その人は音痴でないとみなされます。

 つまり「ドーレーミー」と歌っても、ドとレの音程幅、レとミの音程幅が、正しい音程幅とは違うために、なんとも落ち着きの悪い印象を聞いている人に与える…というのが音痴の症状です。もちろん、本人は正しい音階で歌っているつもりだし、本人の中にあるイメージも正しいのですが、なぜか歌うとイメージとは違っているわけです。

 往々にして、音痴の人は正しい音階を用いて歌えていると思っている事が多いので、自分が音痴である事に気づいていない事もあり、音痴の矯正はなかなか難しいものがあります。

 そんな音痴をどうやって治すか…なのですが、まず、音痴には二種類の音痴がいると私は考えます。感音性の音痴と、運動性の音痴です。数的には、感音性音痴はごく少数で、大半の音痴は運動性音痴です。

 そのうち、感音性の音痴に関しては、治すことは無理だろうと思ってます。感音性の音痴の人は、一般的には耳が悪いと思われていますが、実は脳に障害があるケースが多く、耳で聞いた音から作られるイメージが、その他大勢の我々のような人たちが作るイメージとは極端に違うイメージを作ってしまうという特徴があり、その実、感音性音痴は、感音性難聴の1パターンに相当すると考えられます。

 つまり、聞いた音が頭の中で歪んで認知されてしまうタイプの人で、人数的にもごく少数だと思われますし、今回はこの人達の事は横に置いて論を進めます。

 さて、音痴の大半を占める運動性音痴の話に参りましょう。

 よく、音痴の人は、耳が悪いとか、音感が無いとか言われがちですし、聴音系の訓練をして音痴を治そうとしますが、それってあまり結果が良くないじゃないですか? と言うのも、そういう訓練って、数的に少ない感音性音痴の方々の治療には必要かもしれませんが、絶対的多数を占める運動性音痴には意味のない事なんです。

 と言うのも、運動性音痴の人って、耳が悪いわけじゃないんです。では彼らの場合は、何が問題なのかといえば、単純に“不器用”なんです。ほら、走ると足がもつれて転ぶとか、ボールを投げると足元に落としてしまう人っているでしょ? あれの歌バージョンが運動性音痴なんです。

 だから、運動性音痴を治すのは、実は簡単なんです。不器用な事を前提として、丁寧にカラダの動かし方を学んで不器用を克服するだけなのです。つまり、音痴に関して言えば、正しい発声を学べば、それで音痴は解決するのです。

 そもそも音痴の人は、ドを発声しようと思っても、不器用なために、声がドに当たらずに上に下に外してしまうだけなんです。自分の中で持っているドのイメージは正しいので、自分では正しく歌っているつもりなんですが、不器用なために、声が外れ続けてしまい、聞いている人には音痴に聞こえるってわけです。

 「自分で歌っていて、音が外れている事が分からないのか?」

 極端にハズレていれば、流石に本人にも分かりますが、微妙に外れている場合(多くの音痴の歌は、微妙にハズレていることの積み重ねであんなひどい歌になるのです)案外、本人には分からないものです。声って、自分が聞いている声と他人が聞いている声って違うし、本人は他人ほど冷静に正しくは自分の歌は聴けないんですね。

 というわけで、音痴は正しい発声方法を学ぶ事で治ります。ただ、自分の声は自分では分かりませんので、独学で音痴を治すのは至難の業であり、必ず第三者の耳が必要です。もっとも、最近はチューナーというものがあり、スマホのアプリにもチューナーアプリがありますから、そういうモノを使えば、独学で音痴が治るかもしれません(私には分かりません)。

 とにかく、音痴は治ります。諦めてはいけないのです。


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2019年12月03日

なぜオペラ歌手はデブでも許されていたのか?

 リセット・オロペーサの件を調べていくうちに、なぜ昔のオペラ歌手はデブでも許されていたのか?と考えてしまいました。

 オペラ歌手にとって大切な事は何か? それは、きちんとオペラが歌える事。まずはこれがクリアされていなければいけません。その上で、声が美しいに越した事はないし、容姿も美しいがいいに決まってます。。

 昔…と言っても、オペラが全盛期だった19世紀では、オペラを楽しむのは劇場だけでした。劇場って、客は遠くから歌手を見るわけで、とにかく歌手は派手でなければいけませんでした。衣装は派手に、化粧は派手に…です。体格は…舞台ですから、多少の補正は衣装でできます。太っていても、やせて見せる事は可能だし、痩せていても、ふくよかに見せる事は可能です。とは言え、極端なデブは、いくら衣装の力を借りても、誤魔化しきれませんが、客がそれを認めてしまえば、それはそれでアリですし、おそらく、19世紀のヨーロッパでは、デブなオペラ歌手は容認されていたのだろうと思います。デブであるかどうかよりも、まずはオペラを歌いきれるかどうか…が、当時の大問題だったろうと思われるからです。実際、昔の記録を見ると、作曲家が作った新作オペラが、劇場が用意した歌手では歌えなくて、ダメダメだったという事が多々あったようです。とにかく、歌える事が最優先なので、デブでも何でもよかったのかもしれません。

 やがて20世紀に入って、レコードが普及し始めます。レコードは声しか記録しません。となると、今度は声が勝負どころとなります。レコードを吹き込む歌手は、みんな上手な歌手です。歌えて当然です。ならば、美しい声で歌っているレコードの方が、より売れるわけです。ですから、歌っている人が美声ならば、デブでもビヤ樽でも関係がなかったのです。

 しかし、その流れは、マリア・カラスの登場で変わりました。

 マリア・カラス…当時は、あれだけ歌えて、あれだけ痩せていたソプラノ歌手なんて、そんなにたくさんはいませんでした。痩せた歌手なんて、カラスを含めて、少数派だったので、それまでは特に目立つ事もなかったのですが、カラスは何よりもスキャンダラスで目立つ歌手ですから、まだまだ舞台公演が中心だった時代にも関わらず、客の耳目を集め、みんな、以下のことに気づき出したのです。

 …太ったトスカよりも、やせたトスカの方が、美しい。太ったヴィオレッタよりも、やせてヴィオレッタの方が美しい、太った蝶々さんよりも、やせた蝶々さんの方が美しい。…

 そして、カラス以降、一挙にテレビや映画が普及して、あっという間にオペラの世界もビジュアルの時代に突入してしまったのです。あっという間に世代交代です。デブな歌手は駆逐されてしまいました。デブでも残っていたソプラノなんて、モンセラート・カバリエぐらいでしょう。

 それ以降は、同じくらい歌えるなら、やせたソプラノが仕事を得るようになったのです。何しろ、ソプラノは競争過多ですからね。限られた仕事を大勢の歌手たちが奪い合うわけですから、歌手としての技術を磨くと同時に、容姿も磨かざるを得なかったわけです。結果、ますますデブは仕事を得られなくなる…というわけです。

 しかし、競争が緩い世界では、まだまだデブが活躍する余地があるわけです。例えば、ソプラノであっても、ワーグナーを歌える人は限られていますから、そこは多少、おデブでも仕事があります(デボラ・ヴォイトが良い例です)。また、男声歌手は、女声ほど競争が激しくないので、まだまだおデブでも仕事があるし、テノールに至っては、体型以前に、まず歌える人が少ないので、デブだろうが、チビだろうが、醜男だろうが、仕事があるわけです。

 要するに、本音で言えば、オペラ歌手は美男美女であるべきだけれど、まずはその前に、きちんとオペラが歌えないといけないのです。今の時代は、オペラがきちんと歌えるオペラ歌手、とりわけソプラノ歌手は大勢いるのです。ですから、きちんと歌える上に、美形であることまでも要求されるようになってきた…だけなんだと思います。

 今の方が、競争は激しいけれど、ある意味、舞台芸術的には、まともな時代になってきたんだと思います。むしろ、チビでもデブでも仕事にありつける、テノールの世界は、まだまだ前時代的なんだなって思うわけです。


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2019年11月14日

感情の入った歌を歌いたい

 つまり、棒歌いの逆ですね。棒歌いとは、楽譜が見えるような歌い方だけれど、そこに血の通った人間が歌っているような感じがしない歌い方です。極端な例が“初音ミクの歌”です。とは言え、最近の初音ミクの歌は、打ち込み技術が進歩したためか、なかなか棒ではないんですけれどね。

 そうそう、子どもの歌や演奏って、だいたい棒です。下手な子はもちろん、上手な子であっても、だいたい棒です。あと、某カラオケ番組のアマチュア強者の方々も、見事なくらいに棒です。棒歌いの方が、カラオケの採点マシンで良い点が出るみたいです。

 初期の初音ミクや子供の歌が棒歌いなのは、楽譜通りに歌う事だけに精一杯で、歌詞について無頓着だからだと思います。もっとも、子どもが歌詞に注目して、それを表現しようと歌うと…大抵の場合、やりすぎて臭くなります。それは、気持ちばかりが先行してしまい、歌詞の世界を表現する技巧に欠けるためでしょう。そこを克服できると…美空ひばりのように天才と呼ばれるんだと思います。

 感情の入った歌を歌うには、それなりの技術が必要って話なのです。

 では、感情の入った歌を歌うために必要な技術って何でしょうか?

 私が思うに、それは意図的な“ゆれ”とか“ゆらぎ”を生み出せる事…なんだろうと思います。音楽用語で言えば“カンタービレ”で歌えることです。

 「なんや、それ。“カンタービレ”って、歌うように演奏することやろ。それじゃあ堂々巡りやん」

 まさにその通りで堂々巡りなんだけれど、感情を込めて歌うには、歌うように歌えればいいのです。

 “歌うように”…おそらくは“器楽的ではなく”という意味が込められているんだろうと思います。器楽ほど正確でなくても良い、器楽ほど精密でなくても良い、器楽よりも恣意的で良い…って事ではないかな? 正確さにこだわらず、心の赴くまま、感情の起伏に合わせて、音楽をゆらして、ゆらがせて歌うこと、それが感情を込めて歌うという事だろうと思います。やりすぎは…もちろん、いやらしくなるし、臭くなります。正確さにこだわらずと言えども、正確な歌唱でなければなりません。

 ゆらす…のは、何もリズムだけではありません。音程だってゆらすわけです。拍頭だってゆらしちゃいます。なんでもかんでもゆらします。グラグラにゆらします。ロッケンロール(ゆさぶって転がす)の精神です

 ただ、どこまでゆらすのか…無作為に無造作にゆらせば、それはただの下手くそな演奏にしかなりません。やはり基本は正しい演奏(棒歌い)です。それに、どれだけの“ゆれ”や“ゆらぎ”を付け加えるべきか、そこがセンスであり、歌心なんだろうと思います。それがセンス良くできる人が、歌心のある歌手ってヤツなんだろうと思います。

 センスの良し悪しってのは、一部の天才を除けば、基本的に、経験に裏打ちされたモノだから、子どもとか初心者とかだと難しいんだよね。良い音楽をたくさん聞いて、歌心を自分の中に蓄積していかないと、感情の入った歌を歌うことは難しいんだろうなあって思います。


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