2021年02月22日

最近はドイツ語に対する忌避感が薄れてきたように感じています

 忌避感というか苦手意識というか回避したいとかいう気持ちですね。それらが薄れてきたように感じています。もちろん、薄れてきただけで、無くなったわけではありません。私にとって、歌うための言語としては、日本語や英語は「ウェルカム!」で、イタリア語は「まあ良し」って感じです。ドイツ語は、以前は「パス!」って感じでしたが、今は「仕方ないなあ…」って程度になりました。

 やっぱり勉強はするものだね。すれば、稚拙ながらも何とかなるもんだね。だいたい、ドイツ語は、一回、大学で学んでいるのだから、思い出しさえすればいいんだよね。でも、それがなかなかに難しくて億劫なわけなんだけれどサ。

 ちなみに、私の場合、第一外国語は英語で、第二外国語は中国語(北京語)で、ドイツ語は大学院受験のために第三外国語として勉強したんだよね(中国語じゃ大学院は受験できないのよ:涙)。というわけで、大学院受験レベルまでドイツ語は勉強したのに、オジサンになったら、すっかり抜けちゃっているんだよなあ。やはり試験のための勉強は身につかないのしから?

 全然勉強していないイタリア語の方が親しみを感じるんだから、人間不思議なものです。

 でも、ドイツ語に対する苦手意識が無くなってきたのは、自分にとって良い傾向だと思います。と言うのも、ドイツ語で歌えるようになると、一挙に歌える曲の候補が広がるからね。今まで避けていた、ドイツオペラやドイツリートに手が出せると思うと、いやあ、嬉しいです。

 ワーグナーは声の問題があるから、まだ難しいけれど、シューベルトやシューマンやモーツァルト(ドイツ語の曲)が選曲できるようになったのは、地味に嬉しいですよ。

 後は、フランス語だよなあ。フランス語も歌えるようになれば、もっともっと世界が広がるんだけれど…やっとドイツ語への忌避感が薄れてきた今、フランス語まで望むのは贅沢ってモンだよね。

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2020年12月21日

使えない外国語の歌を歌うことについて

 私はクラシック声楽を習っているので、使えない外国語の歌を日々歌っています。私の場合は、主にイタリア語とドイツ語と英語だ。よく歌っているくせに、言語としては、ほぼ使えない。英語なんて、学校で10年以上も学んだのに、ろくに使えない。況や、イタリア語をや。ましてやドイツ語なんて!

 ちなみに、ここで私が書く「使える」「使えない」は、その言語を母語としている人から見て違和感無く言語コミュニケーションが取れる状態を「使える」しています。つまり、その言語をその国の人と同程度に話せる事…が「使える」の合格ラインなのです。

 日本語で考えてみると良いです。日本語をろくに話せない外国人が日本語の歌を歌っているのを聞くて、なんか変でしょ? 違和感あるよね。 なんか微笑ましいよね。でも、日本語を普通に話せる人の日本語の歌は、自然すぎて違和感ないよね。要はそういう事。

 外国語の歌を歌うなら、変な違和感なんて無いほどに自然に歌えないとダメじゃないかと思ってます。少なくとも、メロディの美しさや詩の素晴らしさではなく「なんか変な発音だな」「舌っ足らずだな」「なまっているなあ」と感じさせてはいけません…って話です。

 じゃあ、使えない外国語の歌は歌っちゃいけないのか…と言えば、それとこれは別の話です。別に私は自分の楽しみのために歌っているので、ド下手な「使えない」外国語の歌であっても、好きなら歌うし、私が歌うことに文句を言われる筋合いもありません。だって、道楽だもの。それが道楽なんだから。

 私の歌を聞きたくない人は聞かなきゃいいんだし…、それ以前に、私の歌を聞けるような場なんて無いんだから、自由に歌えばいいと思うよ、の世界です。

 ただ、プロやプロの卵さんは別ね。彼らはお金をいただいて歌うのだから、最低限のマナーとして、自分が使える外国語の歌を歌うべきでしょう。変な訛った発音で歌っては、お客様に失礼だと思います。

 だから、プロの声楽家さんたちは留学するのだろうし、海外で数年を暮らすのだろうと思います。やはり言語の習得って、その地で暮らすのが一番だもの。別に留学経験の無い人をディスるつもりはないけれど、歌は言葉と共にあるのだから、留学経験の有無は、プロに取っては大切な事だろうと思います。

 私は日本人で日本語しか使えないのだから、日本歌曲に絞って歌うべきだ…と思われる人もいらっしゃるかもしれないけれど、私は日本歌曲ではなく、外国の歌が歌いたいんだから、下手の外国語で歌っちゃうのも、仕方ないよね。

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2020年11月26日

クラシック声楽を学ぶと歌がうまくなるのか?

 残念ですが、なりません。逆に歌えなくなります…なんて書くと、バズるでしょうか(笑)。

 実は歌のジャンルによって話が変わるのです。

 クラシック声楽を学べば、クラシック系の歌は上手になります。イタリア歌曲とかドイツリートとかオペラのアリアは上手になるでしょう(ならないと困ります)。

 でも、ポピュラー系の音楽はダメでしょうね。J-POPとか演歌とかアイドルソングとかは、発声が全然違いますから、音程正しく歌えるようになるかもしれませんが、歌唱としては別のスタイルになってしまいますから、むしろ下手になってしまうかもしれません。つまり、クラシック声楽を学ぶと、カラオケがつまらなくなるかもしれません。

 特に女声は、クラシック声楽とカラオケ音楽では、全く発声方法に共通点が無いので、クラシック声楽を学べば学ぶほど、カラオケが苦手になってきます。男声は女声ほどは離れていないので、歌えないわけではないでしょうが、カラオケでクラシック声楽の発声方法で歌うのは、機械に負担がかかるし、周囲にも迷惑になるので、止めた方が良いと思います。どうしても歌いたかったら(私はやってますが)マイク無しで歌うのが良いかもしれません。

 歌のジャンルによって、歌唱法は違うし、クラシック声楽は、別に人類共通の音楽ではなく、西ヨーロッパの民族音楽に過ぎないわけで、その歌唱法をもって、極東の日本の流行音楽を歌おうというのが、土台無理なのかもしれません。

 オペラの発声で詩吟を歌ったら、明らかに別ものでしょ? 別に詩吟ほど極端な例を持ち出さずととも、カラオケで歌うような日本語のポピュラーソングは、クラシック声楽の音楽とは、発声法も歌唱法も違うのですから、クラシック声楽を学んだからと言って、上手く歌えるようにはならないのです。

 むしろ、カラオケを楽しもうと思ったら、クラシック声楽の事は忘れて歌った方が結果がいいし、楽しいのではないかと思うわけなのです。

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2020年10月22日

クルーン唱法と藤山一郎

 クルーン唱法という歌い方があります。正しくは、クルーナー唱法。または、クルーニング唱法、というらしいのだけれど、日本ではクルーン唱法というのが一般的のようです。

 このクルーン唱法が流行っていたのが昭和前期で、その代表者が藤山一郎という、当時を代表する大歌手なのでした。

 どんな歌い方なのかと言えば、こんな歌い方です。


 優しい声でささやくように歌いかけるという唱法です。え? とてもそんなふうには聞こえないって? そりゃあまあ、比較の話ですから。

 昭和前期までの歌手の歌というのは、今で言うオペラ歌手のような、声を張って大声で歌うのが主流だったそうです。流行歌手であっても、マイクが無い場所で歌わなきゃいけなかった事もあり、歌手の歌声そのものが大きくないと話にならない…という事情があったそうです。

 やがてだんだんとマイクが普及してきて、その普及期が昭和初期であり、普及し始めたマイクに対応するべく、世界中の歌手たちがあれこれ工夫した結果、生まれた歌い方がクルーン唱法なんだそうです。だから、マイク前提の歌唱法といえます。

 そもそもの発祥はアメリカで、ビング・クロスビーとかフランク・シナトラの歌い方を思い浮かべれば正解です。

 日本では藤山一郎がクルーン唱法を日本に持ち込み、これを普及させたわけです。

 ではなぜ、藤山一郎はクルーン唱法で歌い始めたのか? 彼はそもそも現在の東京芸術大学の卒業生であり、当時的にはオペラ歌手であり、クラシック音楽エリートだったわけです。あの時代は、今とは違って、きちんとクラシックを学んだ人が流行歌の歌手をやる事が多かったのです。なにしろ、大声で歌えないといけないからね。

 だけど、この大声で歌うのは、ライブでは良いんだけれど、普及し始めたマイクには都合が悪かったそうです。当時のマイクはまだ性能が悪くって、大声で歌うと、声が割れて録音されてしまったのだそうです。なので、当時の歌手はマイクから離れて、大声で歌っていたそうで…つまり、常に叫び声で歌っていたわけです。

 叫び声が似合う曲ならいいのだけれど、そうでもない曲でも叫び声で歌っていたらしいのです。

 そこに登場したのがクルーン唱法です。マイクを信頼して、叫ばずにささやくように歌う。声を張り上げずに、甘い声でため息交じりに低めの声で歌う。マイクが無ければ、絶対に聞こえない。だけどマイクがあればお客の耳に届く歌い方であり、レコード録音との親和性の高い歌い方だったようです。

 そういう意味では、現在のポピュラーソングの歌い方に通じるよね。一部の歌手を除き、ポピュラー歌手の歌声って(驚くほど)小さいもんね。マイクがなければ、何を歌っているのか分からないもんね。でも、マイクを通せば、それは魅力的な歌声になるわけです。

 なぜ、マイク前提の歌い方をクルーン唱法と言ったのか、これはベルカント唱法と対になる言葉だからのようです。つまり当時、音楽大学で習う歌い方をベルカント唱法と呼び、流行歌に特化した歌い方をクルーン唱法と呼んだようなのです。

 もっとも、当時の日本の音楽大学で教えていた歌い方は、21世紀の現代の我々から見るとベルカント唱法とはだいぶ違っていたと思います。俗に言うドイツ唱法なんだろうと思いますが、そこは深く掘り下げません。

 つまり、藤山一郎の中には、ベルカント唱法とクルーン唱法の2つの歌い方があって、それを使い分けていたわけで、流行歌の歌手としての藤山一郎はクルーン唱法を名刺代わりにしていた…という話です。

 ちなみに、クラシック歌手としての藤山一郎はバリトン歌手だったそうです。ふーん、私の耳にはバリトンと言うよりも、テノールに聞こえるんだけれどなあ…。

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2020年10月21日

今だに小学三年生を引きずっている

 私は、いわゆる幼稚園とかには行ってません。別に幼稚園は義務教育ではないし、ウチは経済的に余裕がないし、保育園に預けるとか、教育に熱心なわけでもなかったので、小学校に入るまでは、家にいました。たぶん、今の感覚で言えば、ネグレクトされていたのかもしれませんが、もうそんなのは時効です。

 なので、教育らしい教育を受けたのは、小学校に入ってからです。私、小学校に入るまで、字も読めなければ、計算もできなかったんです。別に当たり前のはずだけれど、当時からそんなヤツはいませんでした。なぜか皆、字が読めるし、計算もできるんだよね。まあ、いいけど。

 で、小学校に入って最初の2年間の記憶って、あんまり無いんだよね。たぶん、記憶に残るほど楽しい生活じゃなかったんだと思います。

 学校の授業って話で言えば、小学三年生の時の音楽の授業は、結構あれこれ覚えてます。音楽の授業は担任の女の先生が受け持っていた(って、別に音楽が専門ってわけじゃなかったみたいです)ので、別に本格的な授業ではなかったんだろうけれど、色々教えてもらいました。

 仮にT先生って呼びましょう。

 楽典みたいなものを教えてくれたのがT先生でした。で、それで「作曲をしましょう!」とか言い出して、私が適当に書いた曲を皆の前でべた褒めしてくれて演奏してくれたり…結構、うれしくて覚えてます。鍵盤と楽譜の関係を教えてくれたのもT先生で、そこから指一本だけど、ピアノが弾けるようになった私です。すごい自己達成感があったのを覚えてます。三年生から鼓笛隊に入れるのだけれど、その鼓笛隊に入って、小太鼓(スネアドラムじゃ無いんだな:笑)がうまく叩けなくって、教えてくれたのもT先生でした。

 結構、お世話になっているし、面倒みてもらったなあ。当時、大学を出たばかりだったろうに、ほんと熱心な先生でした。

 で、そのT先生の音楽の授業、特に歌の授業で、よくおっしゃっていた事は…

 「とにかくクチを開けて、元気よく大きな声で歌おう!」
 「歌の出だしから、はっきりと歌おう!」
 「歌が始まったら終わるまで、休まずに声を出し続けよう!」

 …です。結構長い間、この教えを守っていました。つい、最近まで守っていたかも。

 さすがに恩師の言葉だけれど、今はこの教えが間違っている事は分かります。

 クチを開けて歌っちゃダメだよね。特にクチの手前ばかりを、それも横にばっかり開いて歌うなんて、もう最低だよね。元気よく大きな声って、そりゃあ子どもだもん、ついつい怒鳴っちゃうよね。でも、怒鳴り声で歌っちゃダメだし、元気よく大きな声で歌おうとして、ノドに力を入れた声で歌っちゃダメダメだよね。

 歌の出だしからはっきりと…って、そんなガツンガツンって感じで歌ったら残念だよね。曲にもよるけれど、多くの曲は、フワッと柔らかく歌い出した方がたぶんいいんだよね。

 休まずに声を出し続けようとした結果、休符は軽く無視して歌うし、息が続くまで歌うからブレスはいい加減だし、なんかやかましい歌になるよね。

 という訳で、先生の教えにダメ出してますが、これって、今の私が抱える欠点そのものなんだよね。先生のせいにはしたくないですが、先生の教えをちゃんと守った結果が今の私なんだよね。子どもへの教育って、大切だよね。

 ってわけで、なんだかんだ言っても、今だに小学三年生をひきずっている私だったりします。

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2020年10月19日

老化も捨てたもんじゃない?

 最近、高音Aがほぼ常用音域に入ってきたなあと自覚している私です。ううむ、ここに来るまで、長かった(ため息)。

 やったね、やったねと喜んでいたら、ちょっとした事を耳にしました。それは「男性は、老化して、男性ホルモンの分泌が減ると、高音を出しやすくなる」という事です。

 別にこの言葉を聞くのは、今回が初めてではなく、今までも色々なところで聞いてきました。たぶん、声楽界に広く流布している通説なんでしょうね。

 …ん? だとすると、今まで苦労して、出そうで出なかった高音Aが出るようになったのは、努力の末に獲得したものとばかり思っていましたが、実は老化のおかげ…か?

 ううむ、なんか複雑。でも、高音が出るようになった事は、めでたいし、うれしいです。

 もし、努力ではなく、老化のせいで、高音が出るようになったのだとしたら、これからもっともっと老化するので、もっともっと高音が出るようになる? だとしたら、老化も捨てたものじゃないね。

 今はAがほぼほぼ限界だけど、この先、Bが出るようになるんだろうし、Hも出ちゃう? もしかすると、Hi-Cだって常用音域に入ってくるかも…なんかワクワクしてきませんか?

 老化も捨てたもンじゃないでしょ?

蛇足 以前習っていたキング先生からは「テノールは50歳まで。50歳になったら、もう高音は出なくなるから諦めなさい」と言われて、実際、50歳になる手前で、あの門下を去りました。で、私の場合、50以前よりも、50以降の方が、高音が出るようになりました。たぶん、発声方法を変えたからだと思うけれど…門下を移って良かったなあ。先生が変わって本当に良かったです。

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2020年09月21日

テノール修行、頑張ろう

 日本人の自然な声は、女性はソプラノで、男性はバリトンなんだそうです。まあ、そうでしょうね。私もそう思います。実際、市民合唱団等では、ソプラノとバリトンの人数って突出するほどに多いですからね。

 つまり、テノールの声は自然な声ではない、特殊な声であり、不自然な声…なのかもしれません。ある意味“希少種”なのかもしれないし“作り上げる声”なのかもしれません。

 声楽を学ぶ前から、きれいなテノール声で歌える一部の天才は別として、実際問題、多くのテノールは、常に高音と戦いつづける修行僧のようなモンです。

 世界一流のテノール歌手であった、ドミンゴやデル・モナコやベルゴンツィも、キャリアの始めや学生時代はバリトンであって、そこからテノール修行をした結果、あれだけの立派なテノール歌手になったと聞いています。

 そう言えば、以前の師匠であるキング先生は「日本の男は全員テノール」という持論を持っていましたが、あれはもしかすると、ちょっと聞いた感じはバリトン声である人も、みんなみんなテノール修行をさせてしまえばテノールになってしまうのだからテノール、という考えだったのかもしれません。

 今のY先生の門下にも、どう聞いてもテノールの声質にしか聞こえない(自称)バリトン君がいます。以前私が「その声は、どう聞いてもテノールにしか聞こえないのに、どうしてテノールにならないの?」と尋ねたことがあります。その時、彼は、自分は今仕事が忙しくて、とてもテノールとしての勉強をしていく時間がないから、このままバリトンで行くつもり…という趣旨の返事をしました。それを考えても、自然な声で歌い続けるならバリトンで、勉強をしていくならテノールにもなれるかも…って事なんだろうと思います。

 そう言えば、私も歌を勉強しはじめた頃は(最初っからテノール志向ではあったけれど)声的には、太いし、重いし、音域も低かったし、ほぼほぼバリトンだったなあ。そこから、声を軽くして、音域を広げていって、一人前のテノールを目指して勉強を続けたわけです。もっとも、今だにその“普通のテノール”には手が届いておらず、なんともバリノールな私だったりします。

 うむ、一人前のテノールになるためにも、テノール修行を頑張っていかないといけませんね。

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2020年07月23日

マスクとフェイスシールド

 ホールとか劇場とかが、ぼちぼちと再開してきました。ウチの近所の市民会館もピアノの発表会とかが行われるようになりました。

 器楽演奏は良いのですが、歌は…まだまだ色々と厳しそうですね。極端な話、ピアノはマスクをしたままでも演奏できますが、歌はどうなのかって話です。

 少なくとも私は無理です。第一にマスクをしたまま歌うのは、息が苦しすぎます。短い歌ならともかく、ある程度の長さの歌を真剣に歌うなら、マスクは相当にヤバいです。さらにマスクをしたまま歌っていけば(当然ですが)マスクがズレていきます。私の場合は、マスクがズレて、クチの中に入ってしまいます。「マスクを食べる」という状態になりがちです。そんな状態では歌は歌えません。

 なので、私は歌うならフェイスシールドの方がマシかなって思ってました。少なくともフェイスシールドなら息苦しくはないし、歌っていてズレる事もありません。問題があるとするなら、声がシールド内に籠もり、歌っていて違和感を感じる事です。でもまあ、これは慣れの問題になるでしょうから、やがて慣れてしまえば、大きな問題ではないでしょう…なんて思っていました。

 どうやら、そんなに簡単な問題ではなさそうです。

 こちらの動画は、東急文化村の“ブンカムラチャレンジ”にアップされた「東京フィルハーモニー交響楽団が新時代の演奏・鑑賞スタイルを模索する」という動画で、なかなか興味深く面白い動画なのですが、この中で面白い試みをいくつかしています。

 その中で、ベートーヴェンの第九の合唱を、マスクをして歌うのと、フェイスシールドをして歌うのとを比較しています。歌声をマイクで拾って、それを聞いているので、正しく聞こえていないのかもしれませんが、仮に小細工なしでマイクで収録したのだとするならば、フェイスシールドで歌うのは無しかもしれません。

 フェイスシールドを着用して歌った場合、声が全然飛んでないのです。いかにも“籠もってます”って声に聞こえるんですよね。これならマスクの方が何倍もマシに感じます。

 この動画を見ながら妻が言っていたのですが、音って音波(空気の疎密波)だから、マスク等の紙や布は通過できても、フェイスシールドのアクリル板は通過できないのかもしれない…。

 確かにそうかも。マスクは空気が通過できるけれど、フェイスシールドは全く通過できないものね。音が空気の疎密波である以上、空気が通過できなきゃ音も通過できるわけありません。

 マスクならば、紙や布が邪魔をして、疎密波の振動が弱まることはあったとしても、振動そのものは通過できちゃうわけです。でも、空気はアクリル板を通過できません。声という空気の疎密波は、アクリル板に当たって、一部はアクリル板を振動させて、アクリル板経由で外部に音を伝えるでしょうが、残りの大半はアクリル板に跳ね返されてしまいます。いわゆる“声が籠もる”わけです。プロのオペラ歌手ならば、声が籠もるのではなく、声が自分に直撃してくるでしょうから、自分の声で自分が参ってしまうかもしれません。

 要するに、マスクは空気の疎密波をそのまま通過させるけれど、アクリル板は、音を効率良くは伝えてくれません。大半を跳ね返してしまうし、外部に音として伝えるとしても、振動を、空気→アクリル板→空気というように変換させ、途中で振動する媒体を変えて声を伝えるわけです。問題は、途中にアクリル板の振動を挟む事です。空気とアクリル板では、伝えやすい振動は当然違うわけで、アクリル板を途中で挟む事で、音質の変更は行われるでしょうし、振動の方向性も変わってしまうと思います。それが聞いた感じで「音が飛んでいない」と感じさせてしまうのかもしれません。

 もしそうだとしたら、フェイスシールドは使えませんねえ。かと言って、マスクをしながら歌うのも気乗りしないし、やはり一番いいのは、距離をとって、何も着用せずに歌う事かな? それこそ2mのソーシャルディスタンスを守って歌えば、なんとかなるんじゃない?

 と、考えたところで、先程の動画ですよ。あの動画では、合唱団員が12名なんですね。各パート3名の4パートで12名です。歌手と歌手の間の距離を十分にとれば、普段は200名ぐらい乗れる舞台でも12名なんですね。頑張れば、距離を保ったままでも、もう少しは歌手が乗れるかもしれませんが、それでもおそらく20名前後が限界かな? そう考えると、合唱はかなり無理です。独唱や重唱ならともかく、合唱は無理だよね。少なくとも、ベートーヴェンの第九は無理って言わざるを得ません。

 第九を歌うならマスク着用…って事になるのかな? でも、マスクをしたまま第九を歌ったら、息苦しくって倒れる歌手が出てくると、我は思うよ。いや、まじで、ほんと、マズイって。かと言って、フェイスシールドを付けて合唱したら、客席まで声届かないし。

 一応、“歌えるフェイスシールド”という、フェイスシールドとマスクのいいとこ取りのようなモノがあるそうですが、ネットで見たところ、家内制手工業製品らしくて、まったく量産化されていないので、私のような趣味人の選択肢には入ってきません。いやはやなんとも。あと、海外には歌手用のマスクと言って、まるでペリカンのクチバシみたいな形状のマスクもあるそうですが、これとて日本在住の私では入手は難しいです。

 ほんま、どないすんねん。

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2020年06月15日

おめでとう、トスティ歌曲全集、完結です!

 今頃と言ってしまえば今頃なんですが、ブリリアント・クラシックスで行われていた「トスティ歌曲全集(THE SONG OF A LIFE)」が全4巻でようやく完結したのです。おめでとうございます。





 トスティの歌曲って、実にたくさんあるんですね。普段私達が聞けるのは、その中のほんの一部です。こういう全集を聞くと、普段は耳にしない“隠れた名曲”が聞けるのが、うれしいです。

 トスティの歌曲って、イタリア語の歌詞に曲をつけたものが、たくさんありますが、実は英語やフランス語の歌詞に曲をつけたものも、たくさんあります。トスティは長いことイギリス王室で働いていた作曲家なので、そのせいもあって、私の個人的な感覚ですが、英語詩の歌曲にはなかなかの名曲があると思ってます。“Addio”なんかは、そもそもが英語詩の“Good-bye”という曲で、これをイタリア語詩に差し替えたのが“Addio”なんですね。

 録音も新しく、歌唱も良い、よくできた全集だと思います。でも、あえてダメを出すならば…オリジナルの調性で歌われていない曲があまりに多くて残念だ…と書き添えておきます。

 トスティの歌曲は、もともとテノールやソプラノなどの高声歌手を対象に書かれたものが多いです。ま、これはトスティに限らず、大抵の作曲家がソプラノを対象に曲を書く傾向になるので、これ自体は特別なことではありません。ですから、たいていの場合、出版社から出される楽譜集は原調版と、それではちょっと高すぎる歌手のための低声版の2つが販売されるわけです。歌手たちの普段遣いであるならば、自分の声に合わせて、それぞれをチョイスして歌えばいいと思います。

 しかし全集となると、ちょっと話は違うと私は思ってます。やはり、全集であるならば、オリジナルである原調で歌って欲しいなあと思うし、声種指定がある曲ならば、せめて当該声種の歌手で吹き込んで欲しいと思うわけです。

 でも、このトスティの歌曲全集は違います。オリジナルの調性ではなく、低声版の楽譜で歌われているものがたくさんあります。

 「低声版と言っても、低めに移調されただけでしょ? 問題ないじゃん」確かにそんな曲もありますが、実はメロディーの一部が改変されている曲もあるのです。おそらく太めの声で歌うなら、より効果的なメロディーラインに改変しているのでしょう。そういう意味でも、全集録音であるならば、オリジナルの調性で統一して録音してほしかったなと思ってます。

 で、あってもトスティの歌曲全集の完結なんて、他には無いので、実に素晴らしい事だと思います。

 ん? そうそう、この歌曲全集は輸入盤なので、日本語曲名とか訳詞とかは付いてません。訳詞はともかく、日本語曲名に関しては、私は以下の本を参考にしました。


 この本は、前半がトスティの評伝、後半が作品解説。おまけに作品表が載っていて、すべての歌曲に日本語タイトルが付いていますので、私はそれを参考にしました。

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posted by stone at 04:00| Comment(2) | 声楽のエッセイ

2020年05月04日

Y先生は私にコンサートを開けというのだけれど…

 声楽のY先生は、事あるごとに私に「コンサートを開きなさい」と言います。

 確かに、アマチュアの歌手の方で、コンサートとかリサイタルとかを開いている人がいらっしゃる事は知っているし、実際、私はそのうちの何人かのコンサートを見に行った事があります。

 有料コンサートなら、あれこれ大変だけれど、無料のコンサート(アマチュアのコンサートは無料の場合が多いです)ならば、会場費も安く抑えられるし、伴奏者の工面さえつけば、どうにでもなるだろうと思いますし、私の場合、伴奏者のアテもあるわけだから、コンサートを開く事は、全くの無茶振りとまでは言えないのですが、それでもやはり「コンサートを開きなさい」と言われると、躊躇してしまうんですよね。

 まあ、実力の問題はあります。私が歌を人前で歌っていいのだろうかという迷いはありますが、無料コンサートなら、まあ許されないわけではないだろうとも思います。実際、かなり酷い歌でも、個人でリサイタルを開いているアマチュア歌手の人を知らないでもないので、私もあの程度ならいけるだろうと思うと同時に、あの程度も歌えないのではないかという危惧もあります。
 むしろ、コンサートともなると、休憩入れて2時間程度は歌わないといけないわけです。私がそれだけの時間歌い続けられるかという体力的な心配もあるし、それだけの時間の曲数のリハーサル…自分はまあ良いとして、ピアニストさんにそれを求めるのは、たかがアマチュア歌手としていかがなものかという思いもあります。

 それより何より、集客力に全く自信が持てません。無観客コンサートではパフォーマンスに気合が入らないし、かと言ってスカスカの会場で歌うのも、やりづらいものです。つまり、それなりに客が来てくれればいいのですが、そこまでの集客力は私には無いんです。その事は、しっかりと自覚しています。

 「じゃあ、君はお客が来てくれれば、コンサートを開くんだね」と言われれば、客が来てくれるなら、喜んで歌いますよ。これでも、目立ちたがり屋ですからね。生意気ですけれど、客の来ないスカスカの会場でコンサートをするとなると、私の米粒程度のプライトがペシャンコになってしまうのがイヤなんですね。

 「YouTubeのネット配信ならどう?」 それって、実質、無観客コンサートじゃないですか?

 もし私がコンサートに参加するとしたら、やはり数名の人と合同でコンサート…という、私の集客力の低さが露呈されないような状況じゃないと無理だね。そういった意味では、私は声楽教室の発表会や地元のクラシックコンサートで歌うのが、せいぜいの関の山ってところです。

 などと、グチグチと言い訳をして、先生からの要望に、全く答える気の無い私でした。

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