2020年02月24日

練習熱心なほど上達しない理由

 フルートであれ声楽であれ、基本的には練習しないと上達しません。だからと言って、毎日毎日熱心に練習しても上達するわけではありません。むしろ、練習熱心な人ほど、下手になってしまったり、技術的に行き詰まったりする事もあるようです。それはなぜでしょうか?

 徒然草ではありませんが「少しのことにも、先達はあらまほしき事なり」が、すべての理由でしょう。

 先達とは、先輩の事です。徒然草では案内人の事を指していますが、一般的には指導者の意味に捕らえて考えるようです。つまり「どんな小さなことであっても、指導者に付いて学ぶ方が、より良い事です」って事です。

 指導者の役割って何でしょうか? 指導者にはたくさんの役割がありますが、一番大切な役割は“過ちを指摘する事”です。そして“正しいやり方を教える事”も大切です。

 つまり“過ちなく、正しいやり方”で熱心に練習するのがベストなんですよ。ところ、その“過ちなく、正しいやり方”で練習するのって、案外、難しくありませんか?

 ヨーロッパでは、毎日のように先生のもとに通って、そこで練習&レッスンを受けるんだそうです。自宅で練習はしちゃいけないと言われる事すらあるようです。それは“過ちだらけの、間違ったやり方”で練習する事を回避するためなんです。

 ところが、日本では、レッスンなんて、よくて週に1回。下手すると、隔週だったり月イチだったりするわけで、その間、全く練習しないわけにはいかないので、当然、自己責任で練習をする事になります。

 先生から習った事を忠実に守って“過ちなく、正しいやり方”で練習できればいいのですが、未熟な私たちは、ついつい誤った練習をしてしまいがちだし、先生の教えを誤解した練習をしてしまったり、無駄な練習をしたり、ネットを参考にむしろ下手になる練習をしてしまったり…とか、色々やってしまうわけです。

 そりゃあ、練習すればするほど、下手になるよね。熱心なだけに、その熱心さが裏目に出てしまうわけだ。なんとも悲しい話です。

 私も、いっぱい、身に覚えがあります(汗)。

 ですから、練習することで身についた事もないわけじゃないけれど、むしろ、練習しない事で出来るようになった事もたくさんあります。

 練習しないと、忘れるものね、良い事も悪い事も…。良い事を忘れてしまうのは悲しい事ですが、悪い事や悪い癖や悪い習慣を忘れてしまうのは、とても嬉しい事です。悪い事を忘れた結果、正しい事が簡単にできるようになったりして…。実際、私が高音を出せるようになったのは、インフルエンザになって、1ヶ月以上も練習できなくて、あれこれ忘れてしまった結果です。

 それまで、かなり熱心に高音発声の練習をしていたのに、ちっともモノにならなくて困っていたのに、ちょっと練習をしなかっただけで、簡単に出来るようになっていた事実には、当時、ほんとビックリしたものです。

 正しい練習をいっぱいするなら練習も意味ありますが、間違った練習を熱心に行うのは、時として上達の妨げであり、それくらいなら練習しない方が結果が良かったりするのも事実だったりするわけです。

 あと、これは難しい問題ですが、指導者について学びさえすればいいという話ではなく、指導者の質も実は問題だったりします。技術不足であったり、教授能力が欠如していたり、やる気がなかったり、そもそも指導者には向いていない人の元で学ぶのは、独学で学ぶよりも危険かもしれません。とは言え、生徒の側で先生を選ぶのは難しい話です(涙)。

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2020年02月03日

練習しなくなりました

 最近、自宅での音楽練習をしなくなりました。

 まあ、仕事が忙しくなった事と、加齢のせいでしょうか? 疲れやすくなった事と、根性が無くなってきた事など、複合的な要因によって、自宅での音楽練習に掛ける時間が極端に減っています。

 とは言え、別に全く練習したくないわけじゃなく、練習しようという思いはあっても、ふと気がつくと、さすがに音を出してはまずい時間になっていたり、翌日の仕事の事を考えると、音楽練習をするよりも、寝た方が良いと判断して寝てしまうと言うか、判断する前に居眠りしていたりしています。

 このブログを始めた頃は、毎日2時間近い時間を自宅練習に割いていました。声楽に1時間、フルートに1時間ずつです。

 今は…と言うと、声楽フルート問わず、一回の練習時間はせいぜい30分程度。毎日なんて、とても無理で、週に2〜3回ほど練習できればよいくらいで、歌も歌わず、フルートも吹かないまま、一週間を過ごしてしまうなんて事すらザラにあります。

 そんな事をやっているから、エルステユーブンゲンが全く暗譜できないんだよね。

 色々あるけれど、やっぱり仕事が忙しいというのが、練習できない最大の理由だと思います。なにしろ、毎日2時間練習していた頃と比べると、仕事からの帰宅時間が2時間半〜3時間ほど遅くなっているんだよね。それもサービス残業だよ。やってられないよね。2時間練習していた頃よりも3時間帰宅時間が遅くなっていたら、音楽練習どころか、日々の家庭生活をアレコレ切り詰め、睡眠時間を削っていかないと生きていけないわけで、そりゃあ、毎日疲れやすくもなるよね。

 そんな中でも、30分程度の練習時間を、週に数回作って練習している私は、ある意味、向上心あふれるオジサンだと言えないわけでもありません。

 いやあ、ほんと、練習時間&睡眠時間、減ったよなあ。

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posted by stone at 04:00| Comment(4) | 音楽一般

2020年01月30日

目標は人それぞれ

 人は目標がないと努力し続けられないものです。

 音楽趣味の世界で言えば、発表会とか演奏会とかコンクールとかの、人前で演奏する機会です。どんな音楽教室や団体であっても、発表会とか演奏会とかは、年一回、または年に数回に渡って、定期的に行われるものです。また、コンクールに挑戦し続ける方もいらっしゃいます。

 定期的に人前で演奏する事で、その時々の自分の実力が分かりますし、上達を確信できるし、次に取り組むべき課題も分かります。また、単純に人前で演奏する事の楽しさや高揚感だって味わえます。なので、人前で演奏する事って大切ですし、それを目指していくから、趣味が続いていくという側面もあります。

 一般論として、目標がなければ、やがて興味関心を薄れ、いつの間にか止めてしまうものなのです。

 しかし、世の中には、音楽趣味を持ちながら、発表会や演奏会など人前での演奏機会から逃げ回る人がいます。理由を聞けば、発表会や演奏会に出演して演奏する事がイヤなんだそうです。

 つまり、音楽趣味を持ちながら、人前での演奏が目標どころか、嫌悪すべき事になっているのです。

 …私には全く分かりません。だって、音楽は時間芸術ですから、演奏者と観客が時と場を共有する事が、音楽を楽しむ大前提ではありませんか? それがイヤって、何?

 人前での演奏がイヤなら、音楽辞めて、美術でもやっていればいいんです。美術なら空間芸術ですから、観客のいる空間に作品を搬入すればいいだけの話で、作者がその場にいる必要なんてないんですからね。画家は人前に出る必要なんてないんです。

 と、毒を吐きましたが、実際問題として、人前での演奏はイヤだという音楽愛好家が一定数いるんです。こういう人たちにとってのは目標ってなんでしょうか?

 たぶん、私には分かりません…が、それでも推測するならば、おそらく、日々の練習であるとか、先生とのふれあいであるとか、趣味を嗜む自分が好きとか…そんなところでしょうか? でもそれは、私にだってあるけれど、それで音楽趣味が継続できるほど、人生甘くないんです。ハードモードなんです。だから、人前での演奏というカンフル剤が必要なんじゃない?

 理解できない人がいるからと言って、彼らを排除するつもりもなければ、敵視するつもりありません。目標は人それぞれ…って事でいいのです。でも、人前演奏がイヤなんて人の気持ち、多分私は一生理解できないだろうと思います。それはおそらく、私が“ショートケーキが大嫌い”という人の気持ちが理解できない事に通じるんだろうと思います。

 あと、ラーメンが嫌いな人の気持ちや、ポテチが嫌いな人の気持ちや、コーラが嫌いな人の気持ちも分かりません。羊羹が嫌いな人なんて、この世にいる事すら想像できませんが…いるんだよなあ。それが世の中、だから面白いんだと思います。

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2020年01月29日

クラオタとは、カップ麺好きのようなもの?

 昔、レコードの事を「音楽の缶詰」と呼んだ方(って、確か、フルトヴェングラーじゃなかったかな?)がいらっしゃいます。もちろん、これは録音された音楽に対する蔑視が含まれた表現なのですが、差別感情は抜きにして、録音された音楽を缶詰と表現する事に、私は感服しております。

 まあ、あの時代の缶詰ってのは、いわゆる保存食の事を指しますから、今風に言うなら、「録音された音楽なんて、音楽のカップ麺のようなものだ」と言いかえると、そのニュアンスがよく伝わります。カップ麺に罪はないけれど「カップ麺のようなものだ」と言われると、なんか安物扱いされたような気がして、愉快な気分ではいられなくなります。

 でも、カップ麺は持ち運びが楽だし、お湯さえ掛ければ、いつでもどこでも食べられると、本物のラーメンとは、やっぱり違うけれど、美味しい事には間違いないです。なんと言っても、リアルなお店までラーメンを食べに行く手間暇を考えれば、カップ麺は本当にありがたい存在です。

 そう考えると、録音された音楽が“カップ麺のようなもの”と言われても「まあ、そうかもね」と同意する人がいても不思議じゃないでしょ?

 でね、日本にはクラオタと言われる人たちがいて、この人たちの主食が録音された音楽なわけです。と言うのも、本場の演奏者たちは、たいてい白人だから、日本にはめったにやってこないので、彼らの演奏を満喫しようとしたら、どうしても録音に頼らざるを得ないわけです。これって、近所に美味しいラーメン屋がないので、カップ麺を食べちゃう人と、関係性においては同じでしょ?

 本当は、お店にまで行って食べたいけれど、お店に行くのが大変だから、お店の味を再現したと言われるカップ麺を食べて楽しんでいるわけです。そう考えると、クラオタとは、カップ麺好きのようなもの?と言えるわけです。

 そういう意味では、私はカップ麺大好きクラオタなんでしょうね。自室には数え切れないほどのクラシックのCDが陳列しちゃっているものね。ああ、こんなにカップ麺を並べているなんて、なんと壮観なのかしら!

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2020年01月23日

日本人なのに、なぜ西洋音楽(クラシック音楽)をやるの?

 当然の疑問です。西洋音楽だって良い音楽だけれど、日本人なら、まずは日本のクラシック音楽…つまり古典的な音楽…伝統的な邦楽をやるべきじゃないでしょうか? 日本の音楽が先、その後、西洋の音楽をやればいいじゃんと言われると、グウの音も出ません。

 「お前、それでも日本人か!」と言われても、なんの返事もできません。だって、私、西洋音楽しか知らないもん。

 学校の音楽の時間に習った音楽は、ほぼほぼ西洋音楽だったわけで、日本の伝統的な邦楽は、申し訳ない程度に紹介されたくらいです。今の若い子たちは、それではいけないというので、我々の世代よりも多く、日本の音楽を学ぶそうですが、それでもやはり、中心的に学ぶのは、西洋音楽です。

 つまり、日本の音楽教育が、日本音楽軽視で、西洋音楽重視だから、その教育を受けて育った日本の子たちは、当然、日本音楽に無知で、西洋音楽の人に成らざるを得ないのです。そういう意味では、今の日本人の音楽教育に関しては、完璧に植民地教育がなされているわけです。(植民地教育とは、地元の事を差し置いて、宗主国の言語・文化・伝統を学ぶ教育です。具体的に言えば、アフリカの人々が自分たちの民族の歴史を学ばずに、フランスの歴史を学んでいるようなものです)。

 日本の音楽を差し置いて、まずは西洋音楽、それもドイツの古典音楽を学ぶのが、日本の音楽教育なんだから、ほんと、どうにもなりません。

 ただ、もういい年したオトナなんだから、いつまでも学校教育のせいにせず、興味関心があるなら、自分で率先して学べばいいのですが、残念な事に、日本の伝統的な邦楽に興味関心が沸かないのです。だって、ほとんど知らないから、興味も関心も湧きようがないんです。

 ひどい話だね。

 それに、幼い頃から西洋古典音楽に親しんできたおかげで、西洋古典音楽の楽しみ方は体に染み付いていますが、日本の伝統的な邦楽は、親しみもないし、興味も関心もないし、楽しみ方もわかりませんので、率先的に学ぶ気になれないのです。

 教育の力は大きいね。

 とにかく、自分でもどうかと思うけれど、私は日本人だけれど、西洋音楽は好きだし、楽しみですが、日本の伝統的な邦楽は、よく知らないので、全然やらないし、やりたいとも思わないのです。

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2020年01月16日

歌心ってなんだろうか?

 この記事は、楽器演奏に関する記事です。

 「良い演奏をするには歌心が必要だ」と良く言われます。あるいは、つまらない演奏に対して「歌心が感じられない演奏だね」とクサす時もあります。

 じゃあ、歌心って何?と尋ねられた時、あなたは答えられますか?

 「それは歌うように演奏する事でしょ?」

 「じゃあ、歌うように演奏するって、具体的には、どんな演奏の事ですか?」

 そう言われると、私は言葉に詰まります。なんとなく、歌心とか、歌うように演奏するとかって、分かっているつもりだけれど、それを明確に定義したり、言葉で説明しようとすると、なんかモヤモヤしてしまいます。

 そこで歌心を一言で説明することは諦め、歌心を形作る要素は何だろうと考えました。それが以下の5点です。

1)自然な息の流れに寄り添う

 管楽器以外の楽器は、息をしなくても、呼吸を無視しても、演奏できるものです。しかし、歌は息が音楽になったモノです。自然な息の流れに寄り添った演奏が、歌心のある演奏なのではないでしょうか? つまり、聞いていて息苦しさを感じるような演奏は論外って話です。

2)音色が豊か

 歌には歌詞があり、歌詞には母音があります。母音には、それぞれの音色があります。つまり、歌のメロディーは歌うだけで、様々な音色に彩られていて、変化を伴います。

 具体的に言えば、ドが3つ並んでいるとしましょう。それを何も考えずに楽器で演奏すれば、同じ音が3つ並んでいるにすぎません。しかし、歌では母音が付いていますから、それぞれの音符の音程が同じドであっても、そこに付いている歌詞が、ア、イ、ウ、であれば、もうそれだけで同じ音符が3つ並んでいるわけではなくなりますし、もしも付いている歌詞が、エ、オ、ア、ならば、それは、ア、イ、ウ、が並んだモノとは、違うものになります。

 歌とは、それだけ音色の変化が多種多様であり、歌心のある演奏とは、音色が豊かな演奏ではないでしょうか。

3)デュナーミクやアゴーギクの幅が広い

 デュナーミクとは強弱の幅であり、アゴーギクとはテンポの幅です。歌って、メトロノームに合わせて歌うなんて事は、まずなく、歌手の気分に応じて、音を大きくしたり小さくしたり、テンポを速くしたり遅くしながら歌うものです。そういう変化に富んだ演奏が歌心のある演奏と言えると言えます。

4)音程が絶妙

 微妙…ではなく、絶妙です(笑)。

 音程って、幅があります。正しい音程というのはもちろんありますが、その正しさの中には色々な音程があるし、正しい音程の中にも、上向きに変化している音程もあれば、下向きに変化している音程もあります。もちろん、震えている音程もあれば、力強く立ち止まっている音程すらあります。微細な音程すら手玉に取って自由に扱うのが歌なのです。

 ちなみに、この手の事が得意な楽器は、ヴァイオリンを始めとする弦楽器です。それゆえに「弦楽器は人間の声に近い楽器」と言われるのかもしれません。

 音程を絶妙に操作しながら演奏するのが、歌心のある演奏なのでしょうね。

5)文学的で心理学的な演奏

 今までの4点の変化を、歌詞の意味に寄り添って変化させ、歌い手の感情のままに変化させていくのが、歌心のある演奏と言えるでしょう。テクニックがただのテクニックなのではなく、文学的な必要と、心理学的な要求に基づいて行われるのです。それが歌の歌たる所以なのです。

 ま、私は歌心というモノを、こんな感じにとらえているわけです。

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2020年01月15日

なぜクラオタは懐古的なのか?

 私もクラオタですが、クラオタの友人たちと話していて感じるのは「どうしてこの人たちは、こんなにも古いものが大好きなのか?」です。とにかく、クラオタで、古いもの、昔のものが大好きって人が多すぎます。

 もちろん、クラオタって年寄りばかりです。平均年齢高めです。ですから、ある程度は昔の世界に生きているわけだし、懐古的になるもの分かるけれど、それでもなあ…って思うわけです。

 例えば、今ここに現役のクラオタさんがいるとします。彼は毎月たくさんのクラシックCDを購入し、コンサートにも足繁く出かけるくせに「あなたにとって、最高の第九はなんですか?」と尋ねると「フルトヴェングラーの第九です」なんて平気で答えちゃうんです。

 ちなみに、フルトヴェングラーのあの有名な第九が録音されたのは1951年ですし、彼自身1954年に死んでます。フルトヴェングラーのリアル世代のファンだとしたら、どんなに若くても、彼の死去の年に20歳だったとして、今は90歳です。

 当然、その方、フルトヴェングラーなんてリアルタイムじゃ知らないんですよ。あの、ノイズだらけの音源でしかフルトヴェングラーを知らないのに、アレが最高の第九だと答えてしまうのです。

 所詮、音楽鑑賞なんて趣味ですし、好き嫌いの問題ですから、誰が何を最高だと思っていてもいいのですが、それにしても、まるで判で押したように「フルトヴェングラーの第九」を最高だと言う人が多すぎます。

 私が???と思うのは、クラオタたちの意見って、案外バリエーションが少なくて「○○が最高」の○○が、老若男女問わず、一致しているのが、私的に???なんです。

 例えば、「第九」はフルトヴェングラーでしょ? 「運命」はカルロス・クライバーで、ソプラノ歌手と言えば、マリア・カラスか、シュヴァルツコップ。ドイツ歌曲と言えば、フィッシャー=ディースカウ。フルート奏者は、ランパルか、ゴールウェイ。他にも、上げていけばキリがありませんが、ここで名前が挙がる人たちは、概ね故人か年寄りです。現役バリバリの演奏家の名前が挙がる事って、めったにありません。

 これらの人たちは、確かに悪くはないけれど、現役バリバリの若手にだって、良い人たちはいますよ。また、音源でクラシック音楽を聞く人なら、録音の良し悪しは大切な条件ですから、昔の人よりも今の人の方が評価が高くなって不思議ありませんし、コンサート・ゴーアーならば、もはや聞けない昔の人よりも、今聞ける現役の演奏家の方が評価が高くなるはずです。

 でも、クラオタという人種は、そうではないんですね。

 私に言わせれば、時間が止まっているんです。時代は令和なのに、まだ頭の中は昭和なんです。下手すると、昭和は昭和でも、高度成長期以前なんです。

 なぜそんな事が起こっているのか言えば…たぶん、若い人がクラオタにならないからではないからだと思います。ある世代を最後に、若い人たちがクラシック音楽に興味を失ったからだと私は思います。クラオタという趣味のジャンルに新しい人が入らないために、新陳代謝が行われず、いつまでも昔のままなので、自然と懐古主義にならざるをえない…のではないかしら?

 たぶん、私の世代が最後のクラオタの世代なんだろうと思います。私よりも若い人たちは、クラシック音楽を聞かないわけではないけれど、決してのめり込まないし、クラシックのオタクにはならない…のです。もちろん、オタクにならないわけではなくて、アニメだったり、ゲームだったり、パソコンだったりのオタクはいるのですが、クラシック音楽のオタクはいないのです。

 ではなぜ、今の若い世代は、熱心にクラシック音楽を聞かないのか? それはまた別の話です。今の私には分かりません。もう少し考えてみたいと思いますが。

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2019年12月24日

プロをナメちゃいけない

 歌とかフルートとかに限らず、音楽を趣味としているオジサンたちの中には、明らかにプロをナメている人たちがいます。人として格下と見下している人もいれば(これは明らかな“職業差別”ですね)、技術的に自分たちの隣の席にいるだけの人として接している人(プロの凄さが分からないんです)もいます。

 あなたは、資産家で上級国民なのかもしれないし、そうでなくても、さぞかし現役時代はご立派な肩書の方だったのかもしれないけれど、今の立場は、ただの音楽愛好家であり、アマチュア音楽家でしかないわけです。相手がいくら年齢的に若かろうと、あるいは芸能人なんて、あなたから見れば社会の外の人であろうと、縁があってご一緒しているプロの方なのです。

 どうして、プロフェッショナルに対する敬意というのもがないのかな?と思うわけです。先達に対するリスペクトの気持ちってないのかしら? いや、無いどころか、むやみに軽く扱って、見下している雰囲気すらあったりします。特にプロの方が、若かったり、女性だったりすると、ほんと、オジサンって、相手を見下すよね。

 なんかイヤだな。他人を見ると、すぐに値踏みをして、マウンティングをし、自分が上に行きたがる人って、人として卑しいと、私は感じてしまうのです。

 いくら若かろうが、相手はプロであり、その技術は一定水準以上あるわけで、それだけでも尊敬に値すると、私は思うんです。

 「誰でも3000時間練習すれば、プロになれるんだ」とか言って、プロなんて大した存在じゃないんだって嘯く人に出会った事がありますが、その言葉を言う前に、まず自分は3000時間練習できたのかい?と尋ねたくなります。その3000時間も自分の人生を費やせる事が尊いわけだし、実際問題、目の前にいるプロの方は3000時間どころか、もっと多くの時間を、人生の大半の時間を捧げた結果、今があるんだと思いますよ。それを3000時間の練習ができていない人が“3000時間うんぬん”と言う事自体、おかしいと思うんです。

 プロの方って、本当はすごく難しい事を、いとも簡単にやってのけちゃう人が多いのです。でも、物事の表面しか見られない人にとっては、その凄い事が簡単な事に感じ、自分じゃ絶対にできないのに、明日にでもできると錯覚して、ナメた発言をする人もいます。ファンタジーの世界にでも生きているのでしょうか? “俺スゲー!”は、異世界のにでも行ってから叫んでください。現実社会は、ファンタジー世界よりも、スポ根の世界に近いんです。汗と涙と努力が必要なんです。

 とは言え、プロの方にもレベルの差があるし、一流のプロもいれば、教育者として立派な方もいる一方、セミプロ(つまりアマチュア)以下の技術しか持っていない人もいるし、演奏力はあっても指導力が皆無の人もいれば、世間知らずだったり、社会的にはほぼクズ同然の人もいるのも事実です。

 アマチュアの人がプロをナメちゃいけないように、同時に、プロの方々はアマチュアにナメられないようにしてください、お願いです。

 一番の問題は、すぐにマウンティングをしたがる、卑しい品性の人たちの存在…なんだと思うけれど、でもそれが人間の本質(ただし欠点)だとも思うので…ああ、難しい難しい。自分と他人を比べても、不幸になれても、幸せにはなれないと思うんだなあ。


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2019年12月18日

私は独学を信用していない

 私は独学を信用していません。いや、話を一般化するのは、よくありません。正直に言えば「私は、私が独学で学ぶ事を全く信用も期待もしていません。それはただの時間の無駄遣いですらある」と思っているわけです。

 実際、私は、私に関する限り、独学でろくな結果を得られていません。

 今まで私は、独学で色々な事を学ぼうとしてきました。例えば、語学で言えば、フランス語やドイツ語です。先生について学んだ、英語や中国語から比べると、独学で学んだフランス語やドイツ語は、全くお話になりません。音楽でも、ギターやピアノは独学ですが、先生について学んでいる声楽やフルートと比べると、雲泥の差です。

 なぜ、そんな事になってしまうのか?

 一つには、独学だと長続きしないからです。なぜ長続きしないのかというと、飽きてしまうからです。なぜ飽きてしまうのかと言えば…私は基本的に飽きっぽい人間だからです(涙)。飽きてしまえば、誰も励ましてくれないので、長続きせず、やがて自然消滅してしまうのが、独学なのです。で、自然消滅してしまうので、上達する間もなく、やらなくなってしまうです。

 また、熱心に学んでいる時ですから、大した進歩はしません。と言うのも、私は飽きっぽいのに粘着質な傾向があり(例えば)練習曲をやっていると、いつまでも同じ曲をずっとやり続けてしまいます。なんか、納得できないんですよね。おそらく、先生について学んでいれば「そのくらい出来ていればいいです。次の曲に行きましょう」って言ってもらえるんでしょうが、独学だと自分が納得しなければ次の曲には行けず、その結果、いつまでもいつまでもかなり長い間、同じ曲ばかり練習してしまい、全然先に進めないのです。つまり、停滞しまくりで上達できない…ってわけです。

 あと、当然ですが、独学をしている私自身は素人です。語学であれ楽器であれ何であれ、今現在学んでいる事に関するノウハウは持っていません。正しいやり方なんて知りません。手本も無いので、何が正解なのか分からないまま、学び続けていきます。

 その結果、変な癖がついてしまったり、間違ったモノを身に着けてしまったり、堂々巡りの挙げ句、正解にたどり着けない事だってありますし、そういう間違った状態になっても、自分が間違っている事に気がつかない事だってあるわけです。勉強で言えば、正解が分からないのに、ただただ問題集を解きまくるようなもので、正解を知らないので、答え合わせができないのに、ただただ問題集を解きまくっているわけで、そんなの勉強じゃないし、学力なんて付かないよね。

 まあ、音楽の場合は、音源があったりするので、一応正解を聞けるけれど、音源がない課題だってあるし、語学、とりわけ会話ともなると、正解なんて合って無いようなもので、自分の答えが正しいかどうかが分からないわけです。

 さらに言うと、独学の場合、今現在の課題と言うか、克服すべき問題、身につけるべきテクニックが何なのか、それが分からないままで、五里霧中で歩いているような感じがあります。教則本を買ってきて、教則本に従って練習していても、今やっている練習曲では、どんな点に注意して学び、何を習得するべきなのか、知らないまま練習していたりするんです。自分が何を学んでいるのか意識できないため、上達も遅くなるし、つまらないどうでも良いことにこだわってしまい、全然前に進めません。

 さらに、独学だと自分のミスに気がつくことができないので、ミスがミスのまま放置され、いつまでたっても上達しません。特に、無意識の癖を修正するのは独学では難しいですし、変な癖も自分で気が付かないので、間違ったまま定着してしまいます。

 このように、独学ってのは、ろくなもんじゃないし、私の場合は、全然身についてません。時間の浪費と言われても否定できないところが悔しいです。

 とは言え、独学にも良い点はあります。

 例えば、極めて安価な事です。何しろ、指導者への謝礼がありませんし、教室に通う交通費もかかりません。お金は命の次に大切ですから、安価なのは、それだけで正義です。

 また地方在住者にとって、現実的な選択肢として、独学しかない場合もあります。と言うのも、地方には先生がいない事が普通だからです。先生について学びたいと思っても、先生が近所…少なくとも通える範囲にいないと、先生について学ぶことはできません。まあ、飛行機に乗ったり、長距離バスに乗ったりして、都会の先生の元に通って学ぶ…というのもアリですが、やはりそれは特殊な例で、ごく普通のオトナの習い事レベルではありえないです。そうなると、自然と独学で学ぶって事になるわけです。

 私には独学は無理です。性格的に無理ですが、独学でも学べる人には、独学は一つの学習行為として、それなりに有効なのだろうと思います。

 でもやっぱり、私には無理だな。


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2019年12月12日

アマチュアなら楽しめばいいだけのハナシ

 少し前にもありましたが、老犬ブログには定期的に「この人の演奏(歌唱)は楽譜通りに正しく演奏(歌唱)しているのか」という質問が来ます。

 正直に言えば、私はソルフェージュの先生ではないので、赤の他人の、それもプロの方の演奏(歌唱)に関して、正しいとか正しくないのか、言うべき立場にはありません。そういう質問は、プロの音楽家のブログ等でしてほしいと本音で思ったりします…が、それでも一応、私なりに誠実に対応したいと思い、いつも私見ですが、答えさせてもらっています。

 と言うのも、質問の前提として

 1)私(質問者)は楽譜が読めない。
 2)音楽は耳コピで楽しんでいる。
 3)この演奏(歌唱)は楽譜通りなのか。
     ->私はこの演奏を真似してよいのか?

 となるからです。

 はっきり言ってしまえば、教材用に録音された音源で無い限り、楽譜通りに演奏している演奏家なんて、まずいません。だって、楽譜通りに演奏するなんて、あまりに平凡でしょ? プロの演奏家は自分の演奏が商品です。だから、自分の演奏(歌唱)には、自分の個性を込めて one & only な演奏に仕上げて、他の演奏家の演奏とは差別化を図って販売するわけです。それができなきゃ演奏家として成功しないし、日本に住んでいる我々が耳聞するような演奏家は成功した演奏家ですから、その音源が楽譜通りなんて事は、まずありえないのです。

 だから「この演奏は楽譜通りに正しく演奏されているか」という質問に関しては「正しいか正しくないかで言えば、正しくない」と答えています。

 でも、そんな事は、本音で言えば、どうでもいいと思ってます。

 楽譜通りであろうがなかろうが、その演奏が素晴らしいものなら、音楽鑑賞をする上では、なんの妨げにもならないわけですから、その演奏をそのまま受け入れて、楽しめばいいと思います。

 その演奏をお手本として、それを真似て演奏して、うれしくて楽しくなれたら、その演奏が楽譜通りでなくても、全然構わないのではないでしょうか。

 つまり「楽しければ何でもアリ」なのが、アマチュアの音楽の楽しみ方だと思うからです。それでは楽しくないと思うなら、楽しくなるための方法を探し、それが見つけられれば、それをすればいいし、見つけられなければ、別の楽しいものを探せばいい…と私は思ってます。

 楽譜だって読めた方がいいけれど、別に読めなくても、音楽が楽しめるなら、それでいいと思います。

 ただ、楽譜を読めない事を負い目に感じるなら、それは楽しくない状態にあるわけだから、楽譜が読めるようになればいいだけの話です。楽譜通りに演奏できない事が負い目に感じるなら、それは楽しくない状態にあるわけだから、楽譜通りに演奏すればいいだけの話です。

 クラシック音楽を趣味とするなら、楽譜は読めた方が絶対に楽しみの幅が広がるので、読めるに越したことはありません。でも楽譜が読めなくても、音楽を楽しめないわけではないし、耳コピで演奏できるなら、楽譜は読めなくても、あまり困らないかもしれません。

 そういう事をツラツラと考え合わせてみると、この問題の根底には楽譜コンプレックスがあるのかな?って思います。楽譜コンプレックスとは「楽譜が読めない自分は、なにか間違っているのではないか」って悩み、楽譜が読めない事を負い目に感じている…ってコンプレックスです。

 楽譜が読める読めないなんて、読み書きの問題ですから、勉強すればいいだけの話です。ただ、独学で勉強して楽譜が読めるようになれるかどうかは…私には分かりません。

 私も長い間、ロクに楽譜は読めませんでした。だって、専門教育なんて受けてませんからね。私の音楽教育なんて、義務教育レベルで修了していました。だから楽譜が読めない負い目って、身に覚えのある話なので、分からないでもないんです。

 それがいっぱしに楽譜が読めるようになったのは、フルートのH先生のおかげです。H先生のレッスンを受け、私がロクに楽譜が読めない事に気づいた先生は、ごくごく簡単な楽譜から始めて、フルートを学びながら、楽譜を読めるようにしてくれました。

 たぶん私の場合、独学では楽譜が読めるようにならなかったと思うし、声楽だけやっていても(声楽は耳コピでもどうにかなるので)読めるようにはならなかったと思います。最初にフルートを学んだ、ジャズの笛先生のところでも、楽譜が読めるようになったかは…甚だ疑問です(笛先生は、H先生とは指導方針が真逆で、いかに楽譜から離れた演奏をするかを教えてくれました)。

 なので、楽譜を読めるようになるには、たぶん、きちんと真面目にクラシック系の器楽を勉強しないと難しいのかなあ…って、個人的には思うわけです。

 なんか、話があっちこっちにとっちらかって、ごめんね。


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